灰色蝶にウロボロス
走っても走っても足音は聞こえてくる。あの重い足音が遠ざかることはない。こっちは走っていて、向こうは明らかな鈍足で歩むペースも変わっていないと言うのに。
走りながらどうしたものかと考え込んでいたところ、ブレザーのポケットから振動が伝わってきた。
そんなことあるわけないのに。そう思いながらも慌ててポケットをまさぐってみれば、さっきまで圏外だったはずの携帯が着信を知らせて震えている。そのディスプレイに表示されている名前は限野。何てタイミングだろう。半ば呆れ、半ば助かったという気分で通話ボタンを押す。
「限野!?」
「よぉ一宮。元気ー?」
「元気じゃない。お守り効果が切れたのか知らないけれど、突然町から人も動物もいなくなって、挙句にやたら重い足音の奴が近づいて来ているみたい。異様に肌がびりびりするし、どう考えても雑魚レベルって感じじゃない」
早口に言い募ると携帯の向こうで限野は声を上げて笑った。
「マジで? 一日に二個も超常現象に遭遇できるとかなかなかねぇよ。さっすが一宮」
何がさすがなのか。と言うか笑うのをやめろ。仮にもこっちは危機に陥っているんだ。
「で、足音が重い奴ってどんなよ?」
「知らない。まだ姿は見てない。けどどこまで行っても足音が途切れない。鈍足っぽいくせに距離を開けた気がしない」
「はぁん。じゃあいっそどんな奴なのか見てみろよ」
真剣さなんて欠片もない声で限野が言う。
「それは私もさっき思ったんだけど、でも見ちゃって大丈夫なの? て言うか姿が見えるほど近くまで行ったら捕まりそうな気がする」
「いや、知んないけど。けど見なきゃどうにもならねーだろ?」
「そうだけど」
「じゃあいい機会だから自分で何とかしてみろよ。お守りに効果がなくなってきたってんなら、尚さら今後のことを考えれば自分で対処できるようになったほうがいいだろ」
限野の言うことはもっともだ。
もっともだとは思う、思うのだけど……。
「そもそも限野が餌を撒いたりしたから私はこんな目に遭っているんだけど」
「あっはっは」
白々しい笑いに本日二度目の携帯を叩きつけてやりたい衝動に駆られた。
「まぁ一宮。ピンチはチャンスとか言うじゃねーのよ。つーわけでチャンスと思ってがんばれ。俺は狩りにでも出つつ一宮の武運を祈ってるから」
それから小声で「あ、やべぇ回復回復」と聞こえてきた。
「……狩りにって……ゲームか! モンスターをハント中か!」
「俺初心者だから、翼竜一匹狩るのも大変なんだよ」
「知ったことか!」
「一宮も今度通信してやろうぜー」
「今度があるかすら怪しい危機に、私は今遭遇しているんだけど!」
「うん、だからとりあえず相手の姿を確認してこいって。そうすれば俺もアドバイスくらいできるかもしんねーし」
「アドバイス……」
してもらったところで私に何か出来るだろうか。限野のように魔法じみたこと、本当に私に出来るだろうか。
「私一人でも何とか対処できる方法はあるの?」
「あん? 当たり前だろ? 俺が言うんだから間違いねーよ。お前に出来なきゃ誰にも出来ねえ。自覚しろ、てめぇがどういう生き物か。どういう経緯で今この世に生きてるのか」
初めて聞く、面白がる調子のない声だ。
「やりもしないうちに出来ないなんて言わせねぇ。無理だから諦めるなんて許さねぇ。てめぇがそんな腰ぬけなんて絶対に許さない」
自分勝手な言い分だ。
だけれども、そうだ。
私だって、やる前から出来ないと諦めるなんて、そんな自分は許し難い。
私が腰ぬけだなんてあってなるものか。
どうやら私は焦って自分を見失っていたらしい。何もかも他人任せなんて、そんなのは私じゃない。
そして絶対的な現実として理解する。
――限野に出来ることが、私に出来ないわけがない。
それが世界の道理、違えることのない法則、真理ですらあるかのように理解する。
「じゃあ、あの鈍重ゴーレムを見てくる」
「おう。見て来い、見て来い」
その声はもう笑い混じりに戻っている。
「あ、電話切らないで。どういうわけかさっきまで圏外だったから、また繋がらなくなったら困るし」
「りょーかい。……あ、逃げられた。くっそ、フィールド上飛びまわってんじゃねーよぉ」
「ゲームを置けっ!」
通話ボタンは押したまま携帯をポケットに突っ込んで、私はそう遠くない場所に聞こえる足音のほうへと向かった。
一つ足音がする度に地面に振動が伝わってくる。どんな重量の奴が歩いていると言うのか。
向こうに見つからないように、こっそりと姿を見られればいいのだけど。
音のする方を窺いながらゆっくりと近づいていく。民家の塀に隠れるように辺りを窺っていると、強い光が目を刺した。丁度目的の方向に太陽があるらしい。じきに沈もうという太陽が赤々と光っている。赤々と輝く太陽。そしてどこからか伸びてくる複数の黄金色の光。
……複数の黄金色の光?
家々の隙間からはいくつもの黄金色の光が見える。揺らめきながらきらきらとした光を放っている。
その間も重たい足音は近づいてくる。私がどこにいるかわかっているかのように、確実に向こうから近付いてきている。そして音のほうからはまばゆいばかりの黄金色の光が。この光はあの足音の主が放っているものなのか。
十字路を横にまっすぐ歩いてくるらしい足音。
そして十字路を縦に進んできた私。
このまま行けば十字路の中心で私達は出くわすことになるだろう。そんなにしっかりと直面しなくてもいいし、このまま向こうが姿を現すまで待機するか。向こうが十字路の真ん中に現れればどうせ姿は見えるようになるのだし。
振動と共に足音がどんどん近付いてくる。
それに呼応するように私の心音も大きく早くなっていく。
ここから十字路の中心までは直線距離にして三十メートルほど。少し距離を置き過ぎかとも思うけど、近づきすぎて逃げられなくなっても困るからこれくらいでいいだろう。
家と家の間から光が漏れてくる。もうじきだ。
息を潜めてその時を待つ。
そして、十字路の中心にそれは現れた。
まっすぐ横を向いていたそれが、重たい動作でこちらを向く。やはり向こうからは私の居場所などわかっているのか、何の迷いもなく私のほうを向いた。そして一歩、私がいる道へと踏み出してきた。
反射的に逃げるように走り出しながら携帯に向かって叫ぶ。
「……っ何、あれ! 限野!」
「もしもーし。相手の姿は見られたかー?」
「見た! 何あれ! あんなものまで存在するの!?」
「俺が知るか。見てねーもん。とりあえずどんな感じか言ってみろよ?」
電話の向こうの限野はあくまで冷静、と言うか呑気。一人で焦っている自分が悲しくなってくるほどに呑気だ。
「……あれに名前をつけろと言われたら、私はゴールデンゴーレムというありきたりな名前をつける!」
と、限野が電話の向こうで激しく噴き出し、大笑いを始めた。
「ちょっと! 冗談で言っているんじゃないんだけど!」