吉祥あれかし第3章
マンションに着くや、スティーヴンはマナをバスルームに運び、バスタブの中で赤い布を取り、有無を言わさず着衣を纏ったままのマナにシャワーを浴びせかけた。
『お前なぁ…幾ら何でも俺の扱い酷過ぎないか!?大体、俺がお前に何をしたって言うんだよ!?』
頭から濡れ鼠になったマナが不服そうに騒ぎ立てるが、スティーヴンはどこ吹く風と体中の灰をシャワーで落として行った。
『ちゃんと摂氏38度に設定してシャワーは出してるだろう。――否、冷水の方がいっそマシだったか?』
シャワーの噴水口を握ったスティーヴンは、バスタブの中のマナを見下ろしてフンと鼻を鳴らし、嗜虐的な笑みを浮かべ、そっとマナの耳元に囁く。
『それとも…脱がせる処までやって欲しかったか…?』
スティーヴンの長い柳のような漆黒の横髪が肩口にしな垂れかかるのをうざったそうにしながら、マナは溜息をついて、スティーヴンからシャワーを奪った。
『不要!必要無し!…とにかく、俺が!自分で!ちゃんと汚れたものはバスタブ内で処理するからどっかに汚れ物用のバケツでも置いておいてくれ。その中に放り込んでおくから!』
そう言って頭からシャワーを被る。スティーヴンは『良い心掛けだな』と小さく笑って、シャンプー、コンディショナー、ボディソープ、スポンジ、汚れ物用のバケツをバスタブのすぐ横にわざとらしくずらずらと並べてバスルームから出て行った。意固地になった自分がまるで掌の上で弄ばれているかのような気がしたマナは周りを汚さないようにしながら、一枚一枚、濡れた服を剥ぎ取り、バケツの中に入れていった。
下着を含む、全ての衣服がバケツの中に収まった時に、マナは「有るべきものが無い」ことに気がついた。そう、マナがいつもチェーンで首から下げていたペンダントである。もう何歳の頃からそれを着けていたか、思い出せないほどに、それは自分の体の一部となっていたので妙な違和感を覚えたが、マナは油と灰で汚れた頭髪をシャンプーでわしゃわしゃと泡立てて洗った。
・ ・ ・ ・
一人っ子で南洋の孤島育ちのマナにとっては、6歳離れたスティーヴンは自分の「にいさん」のような存在だと考えている。9年前にティーニアーンで初めて引き合わされた時は、「たまに訪れる『親の客人』の中の一人」としか考えていなかったが、その後、年に多い時は10回以上も、わざわざ自分に会いに来てくれるようになったその中華系の少年から色々なことを教わった。毛筆での漢字の書き取りもスティーヴンから教わったものである。
スティーヴンの本名は周荣明(ジャウ・ウィンミン)。香港の大財閥の周家の御曹司(正確には4つ年上の姉がいるため、第二子)である。しかし、生まれた時はイギリスの統治領だったため、今では人民政府高官以外、この本名で呼ぶ人間はおらず、通称名のスティーヴン・チャウ(Steven Chow)の方が一般の「通り名」として使われている。
最初に知り合ったばかりのスティーヴンはどこか、マナに対して遠慮がちなところがあったが、いつの頃からか、マナに対しては虐めなのか愛情なのか判らない行動を取るようになった。何がスティーヴンをそうさせたのかは、未だもってマナには不可解であったが、取り敢えず嫌われている訳ではないのだけは判っているので、スティーヴンの気の済むようにさせているのが現状である。
(俺に害を与える人間ではないんだが、どうにもこの扱いはならないのかな…)
マナはそんなことを考えながらスポンジで体をごしごしと洗っていく。皮膚にこびり付いた油と灰を、出来るだけ綺麗に洗い流してしまうように、隅々まで体を洗ってから、ざあっと頭からシャワーを浴びて一気に泡を落とした。
スティーヴンは何故か変な所で潔癖症なので、バスルームの汚れには逐一五月蠅い。それも承知しているマナはバスローブを体に引っ掛けてからバスタブや排水口など、あらゆる所をシャワーで洗い流していく。一通りの作業を終え、バスタオルで濡れた髪を拭きながら、マナはスティーヴンのいるであろうリビングルームに向かった。
『ちゃんとバスタブの掃除はしてきたんだろうな?』
相変わらずぐうたらとソファに深く腰掛け、半分気の抜けかかった炭酸水を片手にぶら下げたスティーヴンが予想通りの尋問をして来たため、マナは左に直角に曲がったところのソファに腰掛け、髪の毛をぱたぱたとタオルで乾かしながら対応する。
『その質問は何百回目だ?いい加減俺だって耳に胼胝(たこ)が出来るぞ』
言下に諾と答えたマナの言葉に、スティーヴンは少しだけ片頬をあげて炭酸水を一口、口に含んでゆっくりと飲み干す。
『それよりも、アレ、返せよ』
そう言って、マナはスティーヴンに向かってぐいと右手を差し出す。
『…アレ?』
『アレといったらアレに決まってるだろうが!俺がいつも首から下げてるやつ!』
スティーヴンは、ああ、と生返事をして大儀そうに起き上がるとキッチンの方に向かっていった。
キッチンから戻ったスティーヴンの左手にはミネラルウォーターのボトル、右手には…何か太い鎖のようなものが見えた。
まあ飲めよ、とスティーヴンがマナのテーブルの前にボトルを置くと、マナはのっそりとボトルを手に取って蓋を開けながら言う。
『…ガス抜きだろうな?』
『無論。但し、一本だけだがな。もっと水が欲しければガス入りのものなら何ダースでもあるぞ?』
『…誰が好き好んであんな無駄に腹の膨れるような、甘くも無い水を飲むか』
憎まれ口を叩きながらマナは手にしたボトルの蓋をぱきりとねじ開けて水を口の中に注ぎ込んだ。
その様子を横目で一瞥したスティーヴンは、テーブルの上にじゃらり、と長い鎖を展ばした。首に飾るチェーンと言うよりは、どちらかと言えば時計のバンドに近い形状の鎖であり、その真ん中には時計の代わりに、改めて磨かれ直された金色のブローチが填め込まれていた。
『…随分と大仰なリメイクだな…』
大して面白くも無さそうに水を呑みながらマナが感想を言うと、スティーヴンは胸のポケットから小さなドライバーを取り出し、それを弄びながら説明する。
『大体、あんな千切れそうな素材のものに無理矢理取り付けるから此処まで重装備にしなければいけなかったんだが?素材はプラチナとチタン、撥水加工、防水加工も全て終了済みだ。そして――この部分にはマイクロGPSが仕込まれている』
そう言うと、端の部分をドライバーでちょん、と叩いた。マナは、呆れたような溜息をつきながらもう一口、水を飲む。
『…これはMa’amの差し金か?』
『そうだな、半分はMadameからの要請でもある。お前が妙な男達に絡まれていた時に、一番近くに居た「信頼できる人間」が――私だったという訳さ。尤も、私も丁度故国からの賓客を銀座のショールームに接待していたから、到着が少々遅れた。キコが上手く時間を稼いでいてくれたようだったがな』
『………』
心持ち、愉しげに語るスティーヴンの様子に、益々不機嫌で膨れっ面になりながら、マナは無言の抗議を続けた。