吉祥あれかし第3章
その声は、紛れも無く、あの電話口の男のものだった。若木の薫り立つようなバリトンの声はそれだけでも聴く者をして惚れ惑わせるぐらいの色香を漂わせていた。
男は、右手にした細長い赤色の蝋燭を、従者の持つ提灯の中に入れた。
『春節(旧正月)明けから、随分と血腥いことをしてくれるな…』
提灯の中に差し入れられた蝋燭には見る見るうちに火が点り、男は火が点いた状態のそれを持って油まみれとなった男達に近づいて行く。その瞬間、男達は自分達が浴びせかけられたものの正体に合点が行き、慌てて悲鳴をあげながら男の持つ蝋燭の方向から逃れようとする。男が一歩一歩近寄る度、油を被った集団は綺麗に二つに割れ、散り散りになって後方の赤い提灯の集団の方に逃れて行く。勿論、赤い提灯の集団は逃がす筈も無く、一人一人を丁寧に捕まえては次々に後ろ手に縄で縛りあげていった。
一人の油を被った男が、蝋燭を持った男の横を慌てて通り過ぎようとした時、男の蝋燭を持っていない方の左手が俊敏に伸びて油まみれの男の首元に届いた。
『待て』
いつの間に袖口から出したか定かではないが、若い男の左腕には暗器が握られ、油まみれの男の首を一突きで掻き切れる状態になっていた。
『その懐に入れたものを置いて行け』
そう言って、蝋燭を持ったもう一方の片手を近づけて来た。観念したらしい男は『判ったよ、出しゃあいいんだろ、出しゃあ!』と捨て台詞を残してパンツのポケットから先ほどマナから千切ったチェーンを無造作に差し出した。若い男はその先に金色のヘッドがあることを蝋燭の灯りで確認してから男を解放した。(勿論、その後、その男は赤い提灯の集団に「鄭重に」縛られて連行されていったが。)
路地に残ったのがマナとキコの二人であることを確認した若い男は、上から二人を見下ろし、くく、と低く喉を鳴らし、蝋燭をくぼみに溜まった油の中に置いた。
・ ・ ・ ・
しかし、不思議なことに、油は発火せず、蝋燭の明かりを反射するのみだった。
若い男はくるりと後ろを向いて、暗器を持った方の左手を高く掲げ、唱和するように叫んだ。
「新年快乐!」
すると、窓辺の赤い提灯が一斉に上に高く掲げられて、口々にこんな言葉が路地をこだました。
「萬事勝意!」
その声のこだまが終わるかどうかという時に、倒れ伏した二人に向かってどさどさ、と細かい砂のようなものが窓辺から降り落ちてきた。今時何処からこれだけの量を持ち込んだかは不明だが、それは確かに細かい灰だった。
もわもわと立ち込める灰塵を背に、若い男は笑いを隠せない様子で肩を震わせていた。こだまのように鳴り響く人々の声で漸く正気を戻したマナは浴びせかけられた大量の灰に噎せ返りながら、若い男を地面から睨みつけた。
『ス…スティーヴン…てめぇ…』
スティーヴンと呼ばれた男は振り返り、マナを見下ろし大声で笑い倒した。
『ククククッ……あっはははははは!正に文字通りのCinderella(灰かぶり姫)だな!傑作傑作!』
スティーヴンは従者から渡された赤い大きな布をばさりと広げ、あっと言う間にマナを赤子のように巻き込んで両腕で抱え上げた。同じ頃、キコも赤い布で覆われて二人の男に担ぎあげられていた。
「謝謝!」
マナを抱きかかえたスティーヴンがこう、各戸の窓辺に向かって叫ぶと、方々から「别客气(どういたしまして)!」という声が聞こえ、赤い提灯が愉しげに揺れた。心持ち、浮かれ気味のスティーヴンの腕の中で、マナは悔しさに唇を噛んでいた。
『口惜しいか?』
『………』
上機嫌のスティーヴンの問い掛けにもマナはむっつりと視線を反らし、無言を貫いた。
赤い提灯が揺れる中、ぐるぐる巻きにされて身動きの取れないマナはロールス・ロイスの後部座席に放り込まれた。程無く、反対側の扉が開き、スティーヴンが乗り込んでくる。運転手に短く『家まで頼む』とスティーヴンが扉を閉めながら告げると、車はゆっくりと坂を上り始めた。
『公子(若様)、これを』と助手席に乗った従者がスティーヴンに濡れたタオルを渡すと、スティーヴンは灰が掛かったと思しき部分を一通り拭ってから、裏を向けて布から顔だけが出ている状態のマナに近づき、優しい手つきで顔の汚れをタオルで拭ってやった。それでも目を合わせようとせず、剝れているマナに、呆れたような口調で言う。
『一度位、痛い目に遭っておかないと、免疫がつかないぞ、この世間知らずの田舎者』
マナは相変わらずぶすくれたまま、そっぽを向いている。意固地になっている様子が甚く気に入ったらしいスティーヴンは、無理矢理顔を自分の方に引き寄せ、口を開かせると濡れたタオルを押し込んだ。
『むぐっ…』
マナは驚いて口を閉じようとしたが、それよりも強い力で口を開かされている。口の中でタオルをぐりぐりと暴力的に動かされ、マナは目をきつく閉じて遣り過ごした。
一度、灰が付着したタオルをマナの口の中からぐい、と取り出してダッシュボックスの中に棄てると、スティーヴンは新たな濡れタオルを脇から次々と出し、同じような作業を数回繰り返した。
粗方の口の中の灰が取り除かれたであろうと判断し、スティーヴンはまた一枚、濡れタオルを出し、マナの顔に巻きつけて汚れていない部分で、マナの口元を拭いた。
不満そうに睥睨するマナの視線に、スティーヴンは汚れが僅かに付着している最後のタオルを右手にひらひらと見せながら、からかうような口調で言う。
『何だ?もっと口にタオルを突っ込んで欲しかったのか?お前はそういうマゾプレイが好きなのか?』
『お前っ…!』
瞬時に顔を真っ赤にして否定するマナの様子が可笑しくてならないといった風情で、スティーヴンは見せびらかしていたタオルを足元に落として、空いた手でマナの頬をすっと撫でる。既に視線はマナから車窓を流れる景色に移っていた。
暫く、気まずい沈黙が流れたが、窓の外の景色を見るともなく眺めていたスティーヴンは、ぽつりとこう零した。
『二年ぶりだな…マナ』
スティーヴンとマナを乗せた車は、摩天楼の間を縫うように這い出て、薄暗い闇の中に軌跡を残しながら消えていった。
・ ・ ・ ・
山の手地区の高台にある瀟洒な造りのマンションの最上階のスイートルームからは都内の景色を一望することが出来る。六本木ヒルズ、新宿の摩天楼、そして遠くには池袋サンシャインビルや東京タワーなどからはチカチカと屋上灯が点滅する光が東京の夜空を彩っている。
スティーヴンはそんな大窓のブラインドを開け放してソファに深く腰掛けて外の景色をぼんやりと眺めていた。
あの後、マナはこちらのスティーヴンが個人としてつかっているメゾネットタイプのマンションに連れて行かれ、キコの方はスティーヴンの腹心である黄(ホヮン)によって、在宅でも治療が受けられる「アジト」に収容されている。
片手にした炭酸入りのミネラルウォーターは、スティーヴンお気に入りのブランドのもので、毎週ボックス単位でこのマンションに特別に宅配されてくる。遠くから水音が聞こえてくるのは、灰塗れになったマナがシャワーを浴びている故だ。