吉祥あれかし第3章
スティーヴンは「所用により遅れた」と言っているが、何故あの絶妙のタイミングで来られたのか。というのも、スティーヴンは予め事が起こるのを察知していたかのような行動を取っていたようにマナには思えてならないからだ。それに「マナにとって害になる存在を排除する」という目的であれば、何もマナ自身が油と灰塗れにはならない筈だ。どう考えても、今マナが此処にいるのはスティーヴンの無駄に手の込んだ悪ふざけとしか思えない。
そういう、スティーヴンの途轍もなく捻くれた性癖を知っているマナは、まんまと俎上に乗せられてしまったような気がして、今度は諦めの溜息をついて再び右手をスティーヴンに差し出す。
『…兎に角、それを返せよ。自分で着けるから』
スティーヴンは口角を少し上げて微笑みながらそのチェーンの両端を両手で摘んで悪戯っぽく微笑んだ。
『無理だ。これは一人では装着できない仕組みになっている』
『…何だって?』
『首の後ろで、ドライバーで固定する必要がある。幾らお前でも、一人で首の後ろでそんな芸当ができるか?』
そう言い置くと、スティーヴンはやおら立ち上がって、マナの背中に近寄って行く。ぎょっとして身動ぎしたマナを窘めるようにスティーヴンはマナの真後ろに腰を降ろし、首にチェーンを巻き付けた。
『私が着けてやるから、じっとしていろ…』
耳元でバリトンの艶めかしい声が囁く。
何も装着するだけであれば、もっと離れていても出来ると思うのだが、マナ自身、スティーヴンのこういった「過剰なスキンシップ」を済し崩しに許してしまっていたのが悪かった。
一体、何時から、スティーヴンは無駄に自分に対して過干渉な迄の態度を取るようになったのか、マナには思い出せない。それほど自分が幼い時からこの『にいさん』は自分のこれまでの人生の一部になっていた。そして、マナには見えていた――スティーヴンの後ろに見える、悲しげな長い黒髪を結い上げた女性の姿が。
彼女がスティーヴンにとって何を意味するのかは判らない。しかし、今、スティーヴンがこうして自分の傍らに存在するのはその女性が原因なのかも知れない。
ぐるぐるとそんなことを考えている間に、ネックレスの装着が終わったらしいスティーヴンは、ドライバーでマナの首をちょろちょろと擽った。首を竦めながらマナは口答えし、スティーヴンの「苛め」から逃れようと踠いた。
『……やめろよ、お前……』
そんな「ささやか過ぎる」マナの抵抗は歯牙にも掛けず、スティーヴンはソファから立つと、ドライバーをくるくると動かしながら、マントルピースの上に置かれたケースの中に仕舞い込みつつ、艶やかな声で訊いた。
『今日…お前が浴びた油は何だと思う…?』
『その辺の揚げ物の残り油じゃないのかよ…』
掠れるような声色で尋ねられて、思わずマナが素のままに仏頂面で答えると、スティーヴンはマナの方を向き直って、『…外れ』とククッと笑いながら小さく返した。
『馬油(マーユ)だ』
『ま…ゆ…?』
その時、突然マナは眠気に襲われた。恐らく張り詰めていた緊張の糸が一気にぷつりと途切れたからであろうが、既に目を開けているのも辛い程だった。そんなマナの様子に気付いて居ながらも、スティーヴンは滔々と若木薫るバリトンの声を低く響かせた。
『普通は、肌の艶を良くし…肌理細かな感触を得るために使われるが……、大量に放置しておくと、まるで廃油のような悪臭を放つ…』
『趣味…悪……』
マナは口で抗おうとしたが、圧倒的な眠気の前にソファに身を凭せ掛け、目を閉じた。
マナには何故スティーヴンがこれ程迄に自分に構うのかが理解できない。少年時代から「東洋一の妖童」と社交界で持て囃されていたこの美しい青年の前に喜んで押し掛ける女性は何人もいるだろう。――否、実際にそのような相手が複数いることも噂として聞いている。なのに何故、そう言った女性たちを袖にしてまで自分に此処まで手の込んだ「嫌がらせ」をしてくるのか――。
一日中、学校での活動やとんでもない「課外活動」で疲れ切ったマナは、そんなことをぼんやりと考えていたが、とうとう睡魔に負けてすやすやと眠りに就いてしまった。目を閉じ、半開きの口でずるずるとそのままソファに横たわる形になってしまったマナの、意外にあどけなさの残る寝顔を見ながら、スティーヴンはマナのバスローブの袷をきちんと直してからゆっくりと体を抱え上げ、寝室に運んで行った。
一応、スティーヴンも男であるから、毎日の鍛錬は欠かさずしているつもりではあったが、全く会わなかった2年間で成長したマナの体はスティーヴンにとってもずしりと重く感じた。
(私の知らない間に―――……)
そこで一旦、言葉を切る。そこで何を問い掛けようが、結局は自分の咎が重く圧し掛かるだけだ。どのような道筋を辿っても、多分一生、自分の心の中からマナの存在を消す事は出来ない――。それは、このすれ違いの2年で痛い程判ったことだった。
スティーヴンはベッドにマナを横たえ、コンフォーターを掛けてやった。
(お前は…私の―――……)
その次に続く言葉を敢えて思い浮かべず、スティーヴンはベッドに腰掛け、小一時間ほどすやすやと眠るマナの寝顔を横様に見ながら仄暗い夜の静寂(しじま)を過ごした。