吉祥あれかし第3章
『その電車には乗るな。発車のベルが鳴り始めたら乗り、鳴り終わるギリギリまでにマナを見つけて扉が開く前に降ろせ』
よくもまあ、無茶な指示をしてくるものである。此処は日本であり、punctualityが何よりも優先される社会である。まさか自分がマナを見つけるまで地下鉄の車掌が待ってくれる筈も無い。キコは焦りながら列車の外からマナを探した。果たして、マナは先頭から二列目の車両にいた。その時、発車のベルが鳴る。漸く追いかけて来たらしい男達はキコの姿を見つけ、二列目の車両に向かって駆け込んでくる。
キコは二列目の一番後ろのドアに飛び乗り、乗車している人々に眉を顰められながら通路を歩き、マナの腕を捕まえると、そのままグイッと二列目の一番前のドアまで引っ張って行った。キコの姿が列車の中に消えたのを追手も見ていたので、そのまま彼らもズカズカと列車に乗り込んでくる。
発車のベルが鳴り終わり、車掌が発車の笛を吹いたその瞬間、マナとキコは自ら倒れ込むように列車から逃れ出た。結果、二人がホームに投げ出されたのと同時に扉が締まり、追手はまんまと「地下鉄の罠」に嵌まってしまったのである。これで次の駅までは大丈夫だろう、と一息ついたのも束の間、矢継ぎ早にイヤフォンから指示が出る。
『これで半分は撒いたが、奴らには仲間がいる。今、周りの迷惑も顧みず、地下鉄の中と外で頭数を増やすべく連絡を取っている筈だ。エスカレーターを上がって一番遠い出口に出ろ』
キコは軽く応答をしてから、マナに言われた通りの指示を伝える。と、その時、ホームの遥か向こうに、漸くエスカレーターから下って来たらしい残りの男達の姿が見えた。マナは軽く舌打ちしてから、弾みをつけて立ち上がると、エスカレーターを駆け上がって行く。
マナに続いてキコも時々追手の様子を窺いながら走り続ける。エスカレーターを上がり、改札を抜けた一番遠い出口とは、すなわち六本木ヒルズに通じる道となっていた。
『外に出たら、左手沿いに真っ直ぐ進め。歩道橋があるからそこを真っ直ぐ進め。二つ目も真っ直ぐ』
マナもキコも、とにかく必死で人波を掻き分けながら走りに走った。時折、何事かと驚いて振り返る人もいたが、その振り返った十何秒後かに屈強ないで立ちの多国籍の男達がどやどやと通り過ぎる際に小突かれて倒れてしまった。周りがちょっとした騒ぎとなっているのも知らず、マナとキコは二つ目の歩道橋を渡ると、右手に公園が見えた。
『真っ直ぐ坂を突き当たりまで。それから左に曲がって坂を上がれ。それから突き当たりを左だ』
キコの指示通り、マナは坂の多い元麻布の道を駆け抜ける。アップダウンの激しい坂を下りた先にはよりにもよって五叉路が待ち受けていた。夜もとっぷり暮れてしまった今、右も左も似たような街並みが続く中、自分の居場所が判らなくなる。
『五叉路に出たらそこの一番左の道を行け。タバコ屋が見えたらその向こうの路地に入れ』
マナもキコも、大体の地図の概要は頭に入れていたが、まるで坂ばかりの迷路のようなこの土地には全く不案内であったから、電話の向こうの人物の案内に頼る他無い。指示通りにタバコ屋の向こうの路地に入ったが、そこは―――Dead End(行き止まり)だった。
『ちょ……っと!どういう事ですか!?これじゃ袋の鼠同然でしょう!?』
キコの抗議を無視するかのように、電話の向こうの相手は冷酷に言い放つ。
『勿論、それを狙った。暫く時間を稼いでいてくれ。こちらも準備が出来たからすぐ向かう』
そう言うと、キコの問い掛けも虚しく、電話回線が切れる音がした。
路地の突き当たりで二人が無為に立ち往生していると、暗闇の中で二人を見つけたらしい追手が仲間を呼びつけ、次々と路地に入ってくる。もう、これまでか。二人は諦念して徒手空拳を奮うために構えた。地下鉄で罠にかかった男達は一体どれ位の「その筋の」人間に声を掛けたものか、黒い人影があっという間に二人を取り囲む。
『さあて、俺達を虚仮にしてくれたお礼を見舞ってやろうじゃないか』
一人が合図の掛け声をかけると、黒い人影は一斉に二人に向かって飛び掛かった。
・ ・ ・ ・
キコはそんな無情な数の差の前でも、マナを守るために必死で楯となって防戦したが、四方八方から繰り出される拳と蹴りの前に膝を付くのには5分とかからなかった。その間にマナにも何人かが襲いかかる。マナは一方にバックパックを投げつけてもう一方に蹴りを入れながら応戦したが、隙が出来た真ん中から鳩尾に向かって拳を突き上げられた時、ぐふ、と低い唸り声をあげて前のめりに倒れ込む。その間も背中には複数の人間からの激しい蹴りが入れられていた。
どさり、とマナが地面に崩折れる音がした時、男達は二人の体から金目の物を探し出した。キコのスーツからは携帯電話とヘッドセット、財布などが抜き取られ、マナのバックからもカード類が抜き取られたが、それ以上の価値があるような物は見出せなかった。
『何だよ、こいつら、超金持ちの坊ちゃんと護衛じゃなかったのかよ』
『シケてんなぁ…お、コレ位じゃねえ?』
一人の男がマナの首にかかったピンクゴールドの細いチェーンを見つけた。所詮ゴールドに混ぜ物をしたものだからそう高く売れる訳ではないが、ここまで梃子摺らせておいて文無しでは余りにも割に合わない。男はマナの首のチェーンをぐい、と引っ張ってチェーンを千切った。するすると首から抜け出て来たヘッドの部分には、そのチェーンの細さに似合わない、厳つい金色のブローチらしきものが附いていた。
『よし、こんなもんだろう。こいつは俺が頂きだ!』
そう言って、男がチェーンを高く振り上げた――その時、路地の周りの住宅やマンションの窓が全て開かれた。
「哈ー!」
入口から見て真正面に位置する窓から現れた一人の男の甲高い掛け声と共に、窓と言う窓に次々と人影が現れ、手にした大きな鉄鍋から液体が階下の男達に向かってぶちまけられた。
『何だ!?』
『くせえ!これ、油じゃねえのか!?』
粘りのある液体を頭から被った男達はその異様なまでの悪臭に逡巡を見せると、窓辺からは次々と大きな赤い提灯が吊り下げられる。一面の赤い提灯に囲まれて、赤黒い奇妙な光に照らされる中、周りの雰囲気が尋常ではないことに漸く気付いた男達は急いで路地から逃げる態勢を取った。
しかし、細い路地の出口にはやはり赤い提灯を持った人の鎖で幾重にも締め切られている。そして、その先に「いかにも」な黒いロールス・ロイスが横付けされた。
後部座席から降り立ったのは、少しだけオーバーサイズのシルクの濃紺のシャツに下はピタリと体の線にあったベージュのパンツを身に付けた、若い男だった。東アジア系独特の癖の無い真っ直ぐな黒髪を無造作に、だが儀礼上失礼にならない程度に襟元まで伸ばした彼は、脇に赤い提灯を持った三十代初め位の従者を随行させていた。その男が前に進む度、提灯の鎖が解かれ、道が開かれていく。
そして、先頭に来るや、仄かに赤黒い、不気味な赤い提灯の光に照らされた男の顔は妖しく歪んだ。
「大家,欢迎向我的里院.(やあ、私の中庭にようこそ)」