吉祥あれかし第3章
そして今、マナの目の前には「あはれ」と平仮名で朱書された「見本」がある。すっと一息、胸腔に大気を吸い込むと、マナはたどたどしいながらもゆっくりと縦書きで「あはれ」と一文字一文字、丁寧に書写していった。
ひとしきり筆の動きを止めた後、マナは書写した紙のやや左下に、「真名」と更に書き入れた。生活する上で自分の名前を漢字で書き表す事は滅多に無いが、それは、母親が自分が生まれた時に付けてくれた漢字だという。
マナが母親に会う機会は年に1回もあればいい方だし、一緒にいる期間もそう長くはないが、マナが5歳になろうとしていた頃、母親からは「『真名』という字は確かに『まな』だが『シン・メイ』とも読める」と教えられていた。
だから、マナは出会った頃、名前が無かったあの愛しいものに「メイ」と名前を付けた。波によって砂浜に打ち上げられた珊瑚の欠片のように白く美しく、そして儚く去って行ったあの存在に。
(メイ―――)
黙々と筆を走らせながら、マナは幼かった頃、メイと育んだ淡い愛情の交歓の日々――と、そして、余りに突然に訪れた別れ――に思いを馳せていた。
・ ・ ・ ・
他の教育機関と同じく、元麻布のインターナショナルスクールには週休二日制が導入されている。
他の日本のインターナショナルスクールの例に漏れず、このスクールも課外活動も重視しているため、特にスポーツ系のクラブに所属している生徒達は、土曜日は対外試合などの時間に割かれ、実質は日曜日のみが休みである場合も多い。
敬虔な宗教者が多い国の家庭に育った生徒の場合は、「故国との親睦を強固なものにするために」日曜日の午前中も家族に連れられて礼拝に参加することも多いので、厳密な意味での自由時間は余りないのが実状だ。
加えて、各授業の課題も日本の通常の小学校や中学校に比べて多めに出される。「ゆとり教育」が問題視される中、このスクールが一定水準以上の生徒の学力を保て、多くの卒業生が有名プレップスクールに進学を果たしているのは、こうした国際基準を見据えた教育方針を掲げているからである。
二月最後の金曜、最後の授業の終了のベルが鳴らされると、一週間の授業の「苦行」から解放された喜びの声がクラス中に溢れた。
勿論、クラブ活動に積極的に参加している生徒達はいそいそと荷物を一纏めにし、ロッカールームに急ぐ者も多いが、表だったクラブ活動には参加していないマナは、課外活動のある生徒に比べればのんびりとした調子で荷物をバックパックの中に詰め込んでいる。
そこに、数名の、やはり課外活動のない「帰宅組」らしいクラスメイトが親しげに近寄って行った。
『マナ、今日も独りで先に帰るの?』
屈託のない笑顔で快活な東アジア系の女子生徒の一人がそう尋ねてきた。確かにマナは毎日のように校門を出た途端、待ち構えていたキコに「捕捉」されて、何処にあるだか不明な「自宅」に帰ってしまうため、クラスメイトと一緒に下校するということがこれまでなかった。
そういう状況をクラスメイト達は些か歯痒く思っていたのだろう。多くのクラスメイト達は何の他意もなくマナともっと仲良くなりたいと願っていたし、マナを取り囲んでくれる暖かく柔らかい雰囲気から、マナ自身もその心遣いを感じ取ることができた。マナは一考してから、徐にヘイゼルの瞳をくるりと回しておどけるように言う。
『何かあるのかい?』
その返事を待っていたかのように、次々とクラスメイト達がマナを取り囲んでわいのわいのと嬌声を上げ始めた。
『勿論あるに決まってるさ!マナ、一緒に行こうよ!』
『いつも家と此処の往復だけじゃ、折角日本に――東京にいる意味が無いよ!』
『前々から私たち、あなたを誘おうと思ってたのよ!』
(悪意のたっぷり籠ったinitiationの後は、それよりも断りづらい、無邪気なinvitationか――。)
そんなことをふっと思いつつも、マナは素知らぬ振りをして尋ねる。
『いいけど……何処に?』
マナの言葉に我先に答えようとした結果なのか、見事なまでの息の合ったユニゾンでその言葉は合唱された。
『The Game Center!!』
・ ・ ・ ・
半ばクラスメイト達に担ぎ出されるようにして校門に現れたマナをキコが出迎えようとしたが、手が差し出される前にマナは片手を挙げてキコを制した。
『今日はこれから“The Game Center”に皆で行くと約束した。悪いが、ガードするんだったら俺から50メートル位離れていてくれないか?』
一瞬、キコの顔色に戸惑いの色が過ったが、マナが『大丈夫だから』と目で念押しをすると、大人しく引き下がった。マナの周りにいるクラスメイト達に全く悪意が無いことが一目見て判ったからでもある。キコが後ろに退いたのを確認してから、マナはクラスメイト達に声を掛ける。
『じゃあ、行こうか。案内は誰?』
『俺!俺が案内するよ!ちょっと坂が多いけどそんなに遠くないから歩いて行こう!』
『賛成ー!』
案内役を買って出たのはフランスから来たと言うジャンだった。限りなく黒に近い栗色の巻き毛をしたジャンは元々漫画やアニメ、ゲームなどの日本の文化が大好きで、親から「日本へ赴任が決まった」と聞かされた時は「俺も行く!」と飛び上がって喜んだ。子供の将来を思って親が「国に残って全寮制の学校でも構わないのよ?」と言われても「何言ってるんだ!日本だよ!?日本に行けるんだよ!?ああ、俺もう仲間に明日から言い触らしてやるよ!」と全く意に介さなかった。それ位日本が大好きだから、ジャンは課外活動でも漫画を描くクラブに所属していたり、ゲームセンターに入り浸っていたりと日本を満喫している少年なのだ。ジャンが道すがら、案内しながら言うことには、日本に来てから東京都心のゲームセンターは殆ど網羅したという。中でもジャンは休日の秋葉原の歩行者天国の雑踏が一番好きなのだそうだ。
『勿論メインストリートにも色々面白いものが沢山あるけど…道を一つ入った小さな小路に突如出現する素敵な店の数々…!毎週驚きの連続だよ!』
滔滔と自らの「武勇伝」を語るジャンに、日本人のリエナはクスクスと笑いながら揶揄する。
『ジャンって、ホントにオタクよねー!私より日本語の漫画の本沢山持ってるんだもん!』
そんな指摘に周りのクラスメイト達もこれを先途とジャンをからかい始める。実際、ジャンは自分がオタクであることを公言しているし、隠しもしていないから、ちょっとやそっとのからかいではジャンは全く動じないのだ。