弦 月
上弦の月
新月の夜は月の光の恩恵にあずかることができない。ふいに目の前の森の葉陰が途切れ、満天の星々がその途切れた先を照らした。
ぽっかり空いた空間。その中ほどに大木が繁っている。幹は太く枝葉は繁っているのだろうが、上空に溶け込んでいるかのように、枝がどこまで伸びているのかわからないほどだ。
灯りが見える。奇妙な灯りだった。あれが先ほど見つけた光なのだろうか。瑠都はいぶかしみながら目を凝らした。
大樹の中央に、何やら星の明かりではない別の灯火(ともしび)が確かに見えている。蝋燭の火影ほどの大きさだが、遠めにもはっきりと窺える灯火だった。
瑠都はその光に吸い寄せられるように、再びいざりながら近寄った。
アダンの樹だった。
それも巨木といっていい。近寄れば近寄るほどその多きさが迫ってくる。これほどの大樹は見たことも聞いたこともなかった。
幹の太さは、十尋(とひろ)ほどもあろうか。
大きな葉がまるで長屋の屋根が連なるように幾重にも覆いかぶさっていた。
「‥…見れば、わかる」父の声がふいに蘇る。瑠都は震えた。
灯火は、そこにあった。
大樹の幹の真ん中部分に光が灯っているのだ。瑠都は目を瞠(みは)った。
大きな根が張っている。気根が無数に地面から生えて、異様な模様を描いている。この巨木が特別であるかのように、周りの木々はこうべを垂れて畏まったように背が低い。
両腕で抱えても抱えきれないほどの気根を避けながら、大樹に近寄った。
灯りのなかにふわりと、白い影が見えた。
人の姿だった。
白い裸体の人間だった。
豊かな黒髪が胸の辺りを隠してはいるが、それは明らかに裸の娘の体だった。
両腕を肩の高さに上げている。合わせた掌を体の前に向けて差し出している。
その手に、先ほどの灯火が灯っているのだ。
人差し指の爪先にその光があった。
よく見るとその体はアダンの樹から生え出ているようだった。
アダンの樹に半身を埋め込んだ娘。
伸ばされた腕。
灯された爪。
豊かな黒髪に覆われた胸。
伸びた白い首。
その顔は微笑んでいた。
くっきりと闇に映える紅い唇。額に影を落とす高い鼻。波間に沈んだ翡翠色の瞳。二十三夜月の弧を描く優しげな眉。
瑠都は動きを止めた。
息さえも止めた。
娘は人差し指の灯火を伸ばして、揺らめく明るさのなかに瑠都を認めると、一瞬の懐疑と深い安堵と喜びの微笑をその頬に浮かべた。
「私は羅沙(らさ)という。ここに縫い止められた者だ。おまえは‥‥そう、約束された私の救い人‥‥か? いや、それとも‥‥」
瑠都は声がでなかった。月のように美しい娘だった。神を見ているのかと思った。娘を見る眼を堅く閉じ、顎が痺れたように下がっていく。
「恐れるな。恐れることはない。私を見よ。私も元は人だった。今は時を止められているのだが‥‥」
「ど、どう‥‥して‥‥、こんな‥‥」かみ締められた歯の隙間から、かろうじて声が出せた。
「そう、はるか遥か遠い、過去の話だが、聞いてもらえようか?」
その娘が息を吐くたびに、いい匂いが立ち込めた。その匂いを嗅ぐたびに、恐れが次第に遠ざかった。瑠都は疲れも忘れてその半身の娘の物語りに聞き入った。