卑怯者
「さっきはごめん」
「…」
「怒ってる?」
「どういうつもりだったんですか」
「どういうって」
あの日、舞台が終わってホテルに戻る人達、食事に出かける人達と三々五々に散っていったみんなを見送り、彼と私は最後に劇場を出た。
流石に一緒には出られないので、彼が先に出て、私は楽屋を全て確認して、最後に鍵を返して劇場を後にした。
ちょうど劇場を出た所で携帯が鳴った。
『○○公園の塔の下で待ってる』
短いメールだった。
そこは休演日によく行く海辺の公園だった。
ホテルからもそんなに遠くないけれど、みんなあまり興味がないのか(それどころじゃないのかもしれない)、知っている人に会わなくて済むので、休みの日はお昼ご飯をそこで食べる事にしている。
20分ぐらいでその場所に着いたら、いきなり謝られたのだった。
「どういう、って言われても」
彼は同じ言葉を繰り返した。
「だって、必然性がないじゃないですか」
「うん…」
言葉だけはすまなそうだけれど、特に悪意もなさそうな、けれど何かを隠しているような表情の彼と、さっきの驚きを思い出してちょっと腹を立てていた私は塔の灯りの下で向かい合っていた。
何十秒、何分、そうやって無言で向かい合っていただろう。
先に沈黙を破ったのは彼だった。
「好きなんだ、って言ったら、困る?」
私はぽかんとしてしまった。明日、太陽が西から昇るかもしれないと思うぐらいそれは「あり得ない事」だった。
「だって」
彼は私をまっすぐに見ていた。
「おかしいじゃないですか、結婚しているじゃないですか。それなのに…おかしいですよ」
「わかってる」
「私、そういうの嫌ですから」
こういう時はどうしたらいいんだろう。
拒否しなくちゃいけないのに、受け入れたい自分がいる。
「……」
目をそらした私を、彼がまだ見ているのがわかった。
我慢ができなかった。
「……っ…」
涙が溢れた。
「ごめん」
さっきよりも優しい声で、彼の片腕が私の頭を抱いた。
もう片腕で、私は囚われた。彼の体温が私を包んだ。
もうダメだ。
「狡いですよ…」
「うん」
「卑怯じゃないですか」
「うん」
奥さん、どうするんですか?別れるんですか?
それは怖くて訊けなかった。
それを訊いてしまったら、彼が「浮気」をして、私は「浮気相手」だという事を、自分自身にくっきり焼き付ける事になる。
彼にはきっと、離婚する気なんかない。それは訊かなくても確信できた。
だから言葉にしなくても、その事実には変わらないのに。
私は逃げた。
きっと、それを切り出さなかった彼も。