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ねずみのひと

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 リサの不機嫌なんか少しも気にせずに、ねずみはひょうひょうと言葉を続けました。
 「理由は簡単だよ。俺は前の前の時に、人間だったんだ」
 「前の前って?」
 「ねずみになる前の前さ」
 リサはちっとも意味がわからないので、首をかしげました。
 「あなた、最初はねずみじゃなかったの?」
 「違うね。もっとも、最初はなんだったかなんて覚えちゃいない。
  ただ、前の前が人間だったってことだけは確かなんだ。それより前はわからない」
 「どうしてわからないの?」
 「前の前の時に、人間だったからさ。娘さんだってそうだろう?」
 突然そんなことを言われて、リサはとても困りました。ねずみの言うことは、わからないことだらけです。
 「あんただって、人間になる前のことなんか、覚えちゃいないだろう?」
 「私は、最初っから人間よ」
 「そうかね。そうかもしれない。だがそうじゃないかもしれない。
  人間ってのは、覚えることが多すぎて、前の時のことなんて、ちっとも覚えておけないんだよ。aとeのスペルの違いだとか、9割る3が3だとかね」
 「私も、忘れてしまったの?」
 「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」
 まったくもって、あべこべであやふやでへんてこなねずみです。きっと人間だった時もそうだったに違いありません。
 でも、確かにその通りかもしれないとリサはまた思って、独り言のように言いました。
 「九九なんてちっとも大事じゃないけれど、覚えなかったらママと先生に怒られるわ。それに、4かける5を12だなんて言ったら、なんにもわかっていない子だと思われちゃうもの。
  覚えることがたくさんなのは、本当ね」
 「そうだろう。そうだろう。
  その点、ねずみは簡単なものだよ。チーズが好きだってことと、ネコが嫌いだってことだけ、わかっておけばいいんだからね。
  ああ、そうだネコだ。さっきも言ったけど、あんた、ネコの話だけは止めておくれよ」
 ねずみは短い毛を逆立てて、ぶるりと震えました。小さなハリネズミみたいです。
 「そんなにネコが嫌いなの?」
 「前の時からずっと嫌いだね」
 ねずみはきっぱりと言いました。
 「前の時って?」
 「魚さ。真っ赤な魚だった時からだよ。
  魚はよかったね。一番なにも考えなくてよかった。なにせ、人間がくれるものを食べていれば、それでよかったんだから。
  ところが、運の悪いことに、俺はネコに食われてしまったんだよ。ついてなかった、まったく」
 あんまりにも落胆した声を出すので、リサはねずみが気の毒になってしまいました。
 「それじゃあ仕方がないわね。ネコの話は、あなたのいないところですることにするわ」
 「そうしてくれると助かる。
  ところで娘さん。お願いついでに、もうひとつだけいいかい?」
 「なぁに?」
 リサはもうすっかりねずみに同情していましたから、他のお願いのひとつくらい、やってあげられることなら、聞いてあげようと思いました。
 ねずみは自分のしっぽを見ました。それは相変わらず、ねずみ取りの金具にしっかりと挟まれて、いかにも可哀想でした。
 「できれば、娘さんのお母さんに見つかる前に、この罠を外してくれないかね?」
 リサはホッとしました。そのぐらいのことなら簡単です。
 「もちろん、いいわよ」
 「それはよかった。俺はまだ、死にたくはないんでね」
 金具を外してあげようと手を伸ばした時、ある疑問が浮かんで、リサは訊ねました。
 「ねぇ。でも、もし死んでしまったとしても、また違う何かになるだけなんでしょう?
  それじゃあ、死んでしまうのも、そんなに大したことじゃあないでしょう?」
 「俺にとっては、たいしたことさ」
 ねずみは――はたして、ねずみに表情というものがあればですが――とても真剣な顔をして、ひと呼吸置いてから続けました。
 「だって、今度の時には、人間になってしまうかもしれないだろう」
 「人間にはなりたくないの?」
 「人間にはなりたくないね」
 ねずみがあんまりにもはっきりと言うので、リサはあっけに取られてしまいました。
 けれど、気を取り直して、なんとかこう言いました。
 「私は、人間だって、そんなに悪くはないと思うわ」
 「どこがだね」
 「だって、ええと、確かに算数は面倒だけど、詩の暗唱は面白いと思うわ。
  あなたじゃなくて、普通のねずみだったら、ちゅうちゅうと鳴くだけで、『キラキラ星』なんかちっとも歌えないじゃない。卵を食べながら、『ハンプティ・ダンプティ』が誰かを思い出して歌ったり、そんな楽しみもないなんて、つまらないじゃないの。
  それに、少なくとも、ネコに食べられちゃうことだけはないわよ」
 「ふむ」
 リサが罠を引っ張ると、ねずみのしっぽがするりと抜けました。ねずみはパタパタと、確かめるようにしっぽを振ります。
 しっぽには、挟まれた時についた、横にまっすぐな傷がありました。
 「確かに、ネコを怖がらなくていいのは、いいかもしれない」
 「そうでしょう」
 リサは得意げに言いました。
 「でもね、人間になると、もっともっと怖いものがある。人間になったら、いつだって、それに怯えなけりゃいけなくなる」
 「それって、なあに?」
 「時間さ」
 時間の何が怖いのかしら。リサは不思議に思いました。
 その時玄関から、ただいまという声が聞こえました。ママが帰ってきたのです。
 「じゃあな。ありがとう、娘さん」
 ねずみは近くの壁の隙間に、すばやく入り込みます。
 最後に、声だけが聞こえました。
 「そうだな。もっともっと後になって、人間のことも全部忘れる頃になったら、戻ってもいいかもしれない。
  『バラは赤い』がわからなくなるのは、少し残念だからね」

作品名:ねずみのひと 作家名:北屋