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珈琲日和 その11

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 確かにその店員は大人しく最初に修理の受付だけをしていたら良かったのかもしれない。けれど、修理に出した時にかかる費用と期間を知っていたので、親切心から敢えてそう案内したのではないだろうか? 壊れてしまったのはその店員のせいではないし、ましてやメーカーのせいでも電気屋のせいでもないと僕は思います。同じ商品でもいくらでも長く愛用している人もいるでしょうし、大量生産が常識ですから一つくらいは欠陥品があってもおかしくありません。店員の案内が少なかった。そんな事聞いてなかったと怒っている人をよく見かけますが、もしそんなに色々と気になるんだったらどうして自分から調べたり聞いたりしなかったのだろうと思います。だって、自分がお金を出して自分が納得して買うものなのですから。納得もしていないのに、誰かの責任にして買うのなんてなんだかおかしな話しです。返品が効くと思っていたとしても、ならどうして買うのかと思います。が、多分この男性のように多くのクレームをつける人は相手になにかしらの不明虜な期待を抱いて、不完全は要望を託して、不安定な信頼を持っているのかもしれません。その自分勝手な甘えと言えなくもないなにかが裏切られたように感じるから怒るのかもしれません。これでは相手もいい迷惑です。そして、きっとその考えは普段の人間関係にも知らずに滲み出ている事も多いのです。売り買いの立場でなくても、誰かに自分から進んでなにかを頼ったり教えてもらったりする場合には多かれ少なかれ礼儀や謙虚さがなければいけないと僕は思います。特に自分が知らない事を教えてもらうのでしたら、自分がなにを知りたいのかも同時に考えなければなんだかわからなくなってしまいます。相手に頼り過ぎる余り、相手に責任まで転換するのは頂けません。そんな事をしたところでなにも良くなんていかないのですから・・・
 男性は更にシュガーを3個追加した飴のようになったカフェオレを飲みながらひとしきり話しまくると、それでもまだ腹が立っているような感じで会計をしてお帰りになりました。なんだか。僕がなにかして怒られたような後味の悪い気分になったので、気分を変える為にAnn Sallyをかけました。


「そういう人って、小心者なんじゃない? 攻撃される前に攻撃しなくちゃって」
 駅のプラットホームで電車を待っている時に僕が男性の話をすると、黙って聞いていた彼女は僕が話終わって少しすると考えるように控え目に言った。僕らの立っている目の前には痛くなるくらい銀色に反射しているレールが横たわり、真夏宛らの強い太陽に焼かれてゆらゆらと熱湯に溶けていく砂糖のような透明な熱気が立ち上っている。お陰で向かい側の影に沈み込んだ暗いプラットホームが蜃気楼のように非現実的に浮かび上がり、圧倒的な明暗の差から生まれる残像も相俟って宛ら僕の大好きな白黒映画でも見ているような気分だ。
「そうかなぁ・・・なんだかすごく自己中心的な考え方をしているように見えたよ」
「だからよ。自分の範囲内で自分の常識内でしか物事や人を見られないから、例え親切心からしてもらった事でも悪い風にしか受け取れない。ある意味自分以外の刺激が怖いんじゃないかしら。自分に非があった時に攻撃されるから」
 彼女は無意識に煙管を口に持っていくような素振りをした自分に気付いて、恥ずかしそうに前髪に見え隠れする目の下10センチ程の微かに伸びる傷がある頰を可愛らしく染めながら、それでもそれだけの事を言った。今や駅の構内は禁煙が当たり前なのだ。喫煙者である彼女にはさぞかし辛いだろうが、僕は彼女の喫煙があまり好きではなかったので、健康の為にも禁煙した方がいいと言い続けていたが頑固な彼女には無駄だった。
「でも、そんなのみんな一緒だろう? 誰でも自分に非があったら、大体は素直に認めるか訂正を受け入れるかじゃないか。そうしないと付き合いも成立っていかないから」
「その人にとって、特定の付き合い以外はどうでもいい事だったら?」
「それは・・・どうしようもないけど」
 暑さのせいか思考回路が鈍くなっているらしく、僕は彼女に返す言葉に詰まってぼんやりと目の前の白黒映画を見つめた。時々、視界に滲む黒い滲みがまた古いフィルムを思わせるのだ。彼女は鞄からハンカチを出して流れる汗を拭っている。
「随分遅いな。何処かで事故でもあったのかな?」
 僕が横で少し蒼白な顔色で暑さに耐えている彼女を振り向いてそう言いかけた時、ふと彼女の後ろに伸びる、白光りしているプラットホームの端に向かって何処かで見覚えのある男性が溶け始めたソフトクリームのようによたよた歩いているのを見つけた。平日の昼前という時間帯なのもあって、ホームで電車を待つ人影はまばらだったので余計に目立ったのだ。
「どうしたの?」
 多分あまりいい顔はしていなかったのだろう僕を不審に思った彼女が後ろを振り向きながら聞いてきた。あの人・・・と僕が言いかけたその時、その男性がなんの前触れもなくふらっとプラットホームの端から姿を消した。それと同時に間もなく電車が到着するというアナウンスが流れた。行動を起こしたのは、僕よりも彼女の方が早かった。彼女はすぐに柱についた赤い非常停止ボタンを思いっきり押した。すると、間延びした機械音がして、ホイッスルを短く連吹するような鋭い音がプラットホームに鳴り響いた。
 僕はその場所に駆けつけると、すぐさまホームの下に飛び降りて、潰れた蛙のようになってレールと枕木の上に突っ伏して倒れている重たい男性を有りっ丈の力で転がしてすぐ横にある外れた黒光りする石が敷き詰められた芝草の上に転がした。ホームが切れる一番端だったのがせめてもの救いだった。もし、ホームの真ん中でこれをやられたらどうしようも出来なかっただろう。電車が駅に1メートル程滑り込んで金切り音を鳴らして緊急停止をした。
 僕はほっとシャワーを浴びたような汗を拭った。男性は脂汗を垂らしたまま真っ青な顔をしてぐったり横たわったままだった。かなり酔っぱらっているのが、胸が上下する度に吐く息の臭いでわかった。おいおい。今はまだ平日の昼前なのに。
「お客様っ!大丈夫ですかっ?」彼女に伴われた駅員が慌てて駆けつけてきた。
「すみません。端っこだったんでなんとかなりました・・・」と僕が報告すると、駅員より先に取り乱した彼女がもの凄い剣幕で怒鳴ってきた。
「私がボタン押したのに、なんで降りたのっ?! なに英雄気取りしてんのっ?! 助けられなくて一緒に死んじゃったかもしれないのにっ!なにやってんのっ!? バカなんじゃないのっ!もうそのまま恰好つけて死んじゃえば良かったんじゃないっ?!」
 散々怒り狂う彼女に、恐らく本来注意しなければいけない筈の駅員も驚いてしまい、まぁまぁそこまで言わなくてもと宥める始末だった。僕は複雑な気持ちでホームによじ登ったが、当の彼女の機嫌は治る事はなくそっぽを向かれてしまった。やれやれ。駅員と駆けつけた救急隊員に起こされて運ばれていく男性を横目で見遣りながら、僕は言った。
「勝手な事して悪かったよ。でも、あの人はさっき話していたお客さんなんだ。全くの赤の他人じゃないんだよ。だから見て見ぬ振りも出来ないだろう?」
作品名:珈琲日和 その11 作家名:ぬゑ