珈琲日和 その11
「だからって、あなたが危険を犯してまで助けるべきじゃない。見て、あの電車。私が押したボタンで充分助かった筈よ。しかもちゃんと降りるなって書いてあるのに!」
確かに電車はホームの遥か向こうで停まっていて、充分間に合っていた。彼女が怒る気持ちも充分わかる。だけど、僕は平日のこんな中途半端な時間にどうしてあの男性がこんな所を酔っぱらって歩いていたのか、そっちの方が気になったんだ。
「そりゃあ、そうかもしれないけど・・・」険しい顔をして唇を噛み締めている彼女に対して上手い言葉が見つからずに僕はもごもごと口籠った。
数日後、件の男性が再び僕の店を訪れました。どうやら、警察から僕の事を聞いて訊ねてきたらしいのです。どうもご迷惑をおかけしました、と男性は以前よりも何処か窶れたような表情で深々と薄くなった頭を下げました。店内には他に昼休み中の渡部さんがいて、文庫本片手にカフェモカを啜っていました。ちょうど先日の事を話していた最中だったのです。
男性は以前とは打って変わっておずおずと席に座ると、一番安いコーヒーをと注文してきました。口元を覆うようにして持っている文庫本越しに微かに渡部さんが笑ったのがわかりましたが、それより僕はどうしてこのお客様があんな時間にあんな所を酔って歩いていたのかが気になったので失礼は承知で聞いてみました。一応こちらにも彼女には激怒されましたが、命を助けたという恩がありましたのでそれを使ってみたという訳です。
「はぁ。なんともお恥ずかしい限りで。私は某会社に勤めておりました。所謂サラリーマンです。家には家内と子どもが1人います。ちょうど先日、あの事故の2日くらい前、会社から地方に転勤命令が来まして、それを家族に話したんです。冷たいもんでしたよ。中学生の子どもはいかないと言い、家内は子どもとこっちに残るから生活費だけ送れと言います。それが嫌ならいっそ離婚してもいいとね。おかしいでしょう? 何を言っても頑として行かないの一点張りの家内を不審に思って、寝ている間に家内の携帯電話を見たんです。そしたら、家内には私よりも年上の恋人がいたのがわかったんです。驚きましたよ。それも子どもも一緒になって私の留守中に何度か食事をしたりしていたんです。休みも返上して上司に付き合い、仕事に明け暮れていた私がそれでも必死になって何より誰よりも大切にしていた唯一のものがこれだったのかと絶望しまして。あの時は死んでもいいと思って・・・」
成る程。確かにそれじゃあ、ああもなるのかもしれないと思いました。けれど、
「失礼だが、聞こえ次いでにちょっと言いたいのだが、そこまで思い詰める理由は家族の事だけじゃないような気がするのは気のせいかな? だって、お宅は少なくとも会社をリストラされたわけでもないし、離婚を突きつけられているわけでもない。家族に嫌がられているわけでもないじゃないか。俺が思うに、お宅は自分が信じていた大切なものを守るという大義名分の為に過去に誰か何かを犠牲にしたんじゃないのかな?」
珍しく渡部さんが横から割って入ってきましたが、聞く内容がストレート過ぎて僕は些か焦りました。男性はちらっと渡部さんを一瞥すると、僕の方を向き直りました。
「すみません。こちらは小児科医をなさっている渡部さんです。別に悪気はないんです」
僕は慌ててフォローをしようとして思わず渡部さんの自己紹介をしてしまいました。
「そうですか。お医者様でしたか。さすがに病気も物事も見抜く力が備わってますね」
「どう致しまして。それで食ってますから」
この男性の関係ない相手に対しての態度を知っている僕は、渡部さんにそれをしたら喧嘩になりかねないと思い慌てていました。しかし、それには全くお構いなく渡部さんはカフェモカを啜りながら悠長に話し続けています。もしかしたら、渡部さんは命を扱う責任ある淡々とした冷静な医師としての顔を出していたのかもしれません。男性は剥げかけた頭に脂汗を浮かべてしばらく考え込んだように固まっていましたが、不意に口を開きました。
「・・・おっしゃる通り、私には社内に10年来の恋人がいました。とても好いてくれまして、離婚出来なくても一緒にいられればいいと言ってくれて、私も彼女を愛してました。けれど、それに感づいた妻が騒ぎ出しまして、会社にまで乗り込んできたんです。さすがに社長に呼び出され、周囲の迷惑を考えろ。周辺整理くらいちゃんとしろ、さもないと首にすると言われたんです。さすがの私も首になっては堪りませんから、彼女に事情を話して別れたんですが、彼女はその数日後に電車に飛び込んで 自殺したんです」
「だから、同じようにして死のうと?」
「私が・・・殺したようなもんですから。守る価値がないようなものの為に 彼女を」
そう言うと男性は深いため息をつきました。初めてお会いした時とはまるで別人のようでした。それが果たして、家族の事がきっかけだったのか、それともあの事件がきっかけになったのかはわかりませんが、とにかく人に歴史ありとは本当によく言ったものです。
「人間は知恵と欲がつき過ぎたせいか、それとも色んな物事に縛られなきゃ生きていけないからかはわからんが・・・悲しい事には、守っていたものが本当はなんだったのかが最後にならなけりゃわからない場合の方が多いんだ」
毎日たくさんの小さな命と触れ合っている渡部さんの言葉は重みがありました。わかった時はもう手遅れになっている場合の方が格段に多いのだと。それだけ、人は毎日の中で見過ごしたり自分本位になって生きているのだと。僕にはそう聞こえました。そして、恐らく男性にもその意味は伝わったのだと思います。少なくとも、男性は以前よりも明らかに人に対しての姿勢が変わっているのですから。恐らくはこれからも自分に対しても人に対してもいい風に変わっていける筈です。渡部さんが腕時計に目を遣り、ご馳走様と言って席を立つと、お勘定を置いて出て行きました。男性は俯いたまま固まっていて、その表情は伺えませんでしたが、肉付きのいい肩が微かに震えているようでした。音楽が止みました。
僕はThe Carpentersをかけました。Karen Carpenterの低い声が、丹念に磨き込んだばかりの艶やかな板張りの床に投げかけられた光を優しくそっと吹くようにごく静かに流れ出しました。本当に人生色々あるもんです。僕は独り言くらいの声量で男性に言いました。
「命あっての物種です。もし、後悔しておられるのなら、今からでも 出来る事はたくさんありますよ」
途端に男性はカウンターに突っ伏して嗚咽を漏らしました。弾みで倒れたカップからは真珠色に輝くカフェオレと溶けかかった小さな2粒のブラウンシュガーが溢れました。それがなんだか男性の心を表しているような妙な気がしてしまい、僕は思わず布巾を持つ手を止めてふと見入っていたのでした。