草食男子の憂鬱
とはいいながらも、真の手はカクテルに伸びた。呑まないとやってられない、と格好悪いことこの上ないことを思いながら咽喉を滑る液体に目を細める。なんで、って。そりゃあは思い出すからだろう浮気相手のことを。言ってしまおうか暫し悩んで、真はそっと前島の顔を窺った。
かれは間違いなく、真の言葉を待っている。その深い色をした瞳はじっと真のほうへと注がれていた。こんな目で見つめられて、好きだと言われたら、真なんて捨ててそっちに走りたくもなるだろう。思って自分で自分に落ち込む。
「…似てんの」
「え、俺が?あんたの彼女に?」
「彼女じゃない!あほか!」
目を丸くした前島に声を荒げて、真は酒の色がついたため息を零した。磨き抜かれた木目のテーブルに視線を落とし、僅かにスパークリングする深紅の液体を飲み干す。二杯目もすぐに空になった。明日が日曜でよかった、と思いながら、これもう一つ、とやけになってマスターに注文をする。
「浮気相手だよ。…いや、俺が浮気相手だったのかもしんないけど。とくに前の彼女のに、そっくり」
素面だったら絶対に言わないようなことを、真はべらべら前島に語った。神妙な顔で聞いていた前島が、僅かに身体を揺らす。ふわりとあのいい匂いがして真はますます頭を下げた。生まれ変わったらこんな勝ち組に生まれたいものだ、と思いながら。
「ふうん…、彼女、美人だったね。前の人も?」
「そうだよ。所詮俺には釣り合わない」
自分で言っていてみじめになって、真ははあ、とため息をついて項垂れた。酔いが廻り始めている。もう色々どうでもよくなってきていた。どうせまた次に誰かと付き合っても、前島のような男にさっと持っていかれるのだろう。なんて思ったらやるせない気分になったのである。
「真さん?」
「顔良し頭良し収入良し、にどうやって勝てっていうんだよ…」
絶対に目の前の体現者には言いたくなかったことも、ぽろっと口を溢れ出た。ちょっとだけ笑った前島が、テーブルに突っ伏した真の後頭部をぽんぽん、と叩く。まるっきり男としての器が違うと言われているようでますますみじめになった。
「真さんは優しいだろ」
「優しいだけじゃダメなんだよ…」
ぼそり呟いて、真は黙り込んだ。ジャズとシェイクの音だけが聞こえてくる店内で、それ以上前島も何か言おうとはしない。そんなところも心得ていて、また苦々しい気分になる。真だったらまた下手にフォローしようとして墓穴を掘っていたところだろう。はあ、と酒臭いため息をついて顔を上げた。
「やっぱり色男は違うな。どうしたらそんな風になれるわけ」
「…別に俺、そんな遊んでないけど?」
出来あがったカクテルを真の前に滑らせて、前島が意味深に咽喉の奥で笑った。ちょっとだけムッとして、真はまたカクテルをがぶ飲みする。もう味もいまいちわからなくなっていた。
「今までお前が泣かせた女に録音して聞かせてやりたいくらいだ」
「真さんは俺に偏見ありすぎじゃない?」
「偏見なんかじゃない!これから先もずっとお前みたいなやつに負けっぱなしだと思ったらもう、」
しんでしまいたいくらいだ。
吐き出すと少し楽になった。だからこの男が苦手なのだ、隣に居るといつも劣等感でいっぱいになる。いいやつだと分かっているからなおさらだ。どんなに背伸びしても、真は前島にはなれっこない。苦笑いした前島が、水ひとつ頂戴、とマスターに声をかけた。前島のカクテルはまだ残っているから、多分真の分だろう。気配りまで出来るなんて、そりゃあモテる。また苦い気持ちになったから、真はふっと短く嘆息した。
「…そういや、お前はなんでここに?」
「近所なんだよね。ウチの。何か呑みたい気分だったから」
何か呑みたい気分、でこんな洒落たバーに来るなんて、とまた嫌味のひとつも言いたかったけれど、いい加減大人げないなと思ったからやめた。大人しく水を呑むけれど、思った以上に先ほどの紅いカクテルは度数が強かったらしい。ふわふわした感覚が抜けなかった。
「何で来たの?」
「電車。…今何時?」
「あと一時間くらいで終電だけど…、帰れる?よかったら泊ってけば。明日送るよ」
なんて、色男が色男らしいことをいう。これは素直に申し出を請けたほうがいいと自分の中の泥酔の感覚で悟りながら、ちょっとだけ真は笑顔を零した。
「なるほど、こうやって女の子を引っ掛けるわけだな」
「……、だから、あんたは俺に偏見持ちすぎだってば」
…それが、バーでの真の最後の記憶である。