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草食男子の憂鬱

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目が醒めると、なんだか知っているけれど思い出せない良い香りに包まれていた。さわやかだけれど嫌味のない、どこか甘さを残した匂い。柑橘より柔らかく、花よりは涼しげだ。この匂いが、好きだと思う。何度か瞬きをすると、テレビでしか見たことがないような大きなファンがついている天井が見えた。白くてきれいな天井は、真の家のとは違う。

「…あ、起きた」

ここはどこだろう、なんて思っていたら、そんなどこか甘怠さを残した声が掛けられた。びくりと身体を竦ませた真の背中を撫でた手の体温が、熱い。ふいに意識が覚醒する。

「…ま、まま、前島!?」

広くとられたセミダブルのベッドのうえ、ぴったり真にくっついて横になっていたのは、普段より色気が三割増しくらいになった色男だった。ものすごい勢いで真の心臓が早鐘を打つ。ちょっと待って、とか、なんで、とかそういう言葉を口走って前島の胸を押しのけようとしたら、ふふ、なんて甘ったるく笑いながらそんな抵抗ごと抱きしめられてしまった。

「ちょっ、ちょ、離せ!離せってば!」
「もうちょっと寝てたらいいじゃん。それよりあんた二日酔いしてない?」
「そっ、」

それよりって何だよ!と言いかけた真の口を掌で塞いで、また前島が悪戯っぽく笑う。乱れた少し長めの髪がらしくもなくて、ますます真の心臓は口から出ていってしまいそうだった。

「してないよ」
「…へ?」
「あんたが思ってるようなことはしてない。…何も覚えてないの?」

どくどくといっていた心臓は素直なもので、その言葉でちょっと落ち着く。彼女に振られた腹いせに酒の勢いでこれまでと全く違う世界に目覚めるなんてマンガのなかだけで十分だった。けれど抱きしめられている状況は変わらないしなにより、真はなにも覚えていないのだ。前後不覚になるまで酔うことなんてめったにないから、よけいにびっくりする。

…ここが多分前島の家であることは、なんとなくわかる。今日は日曜日で、会社は休みだ。昨日、バーを出てこの家でなにがあったのか、真は覚えていない。おぼろげな記憶をたぐり寄せる間、色男は律儀なことに真を抱いたまま黙って待っていた。

「…、ま、まえしま」
「ん」
「ちょ、と、取り合えず、離せ」
「んー…」

寝ぼけた子供が抱き枕を離したがらないようにいやいやをした前島に容赦なく蹴りを入れて、真はずるずる布団から這い出した。シックな雰囲気の部屋にはアルミ製のデスクと座り心地のよさそうなソファがある。マンションの一室だろう。超高層というほどでもないが決して低くもない、そんな景色が開けっぱなしのカーテンから見えた。ベッドサイドに腰掛けて、真は横になったままの前島に恐る恐る視線をやる。まさかこいつがこういう趣味だったとは…と頭痛を覚えながら、ようやく探り当てたゆうべの出来ごとをたぐり寄せた。

「お前のウチ…だよな」
「そうだよ」
「…チューハイ、呑んだ」
「呑んだね」
「それから…」
「それから?」

断片的に記憶が戻ってくる。チューハイを呑みつくしたこと。酒買ってこい、と言ったこと。…だめな大人だ。それから、そう。付き合ってちびちびちょっとだけ酒を呑んでいた前島が、べたりとフローリングに転がる真をひっぱり起こしたのだ。冷たいフローリングの代わりに黒いソファに転がされて、それから。

『まだ口寂しいの?』

なんて低く囁いた、前島の超絶色っぽいドアップが、ばっちり真の脳内で再生された。

「…、しっ、してるだろ!しただろ!」
「キス?最後にはあんたも乗り気だったじゃん。合意だよ合意」

生々しく残る酒の味がする唇の感触に真っ赤になった真を覗きこんで、前島はそんなことを言う。これだから色男は!と半ばやけくそに思いながら、真は頭を抱え込んだ。胃が痛くなりそうだ。

「…あんま悪酔いしなかったみたいだね」
「…」
「ま、あの酒ならそうか」

なんてひとり納得した様子の前島が、背後で身体を起こす気配がする。はっと全身を硬直させた真を宥めるように、背後からずっしりと圧し掛かられた。

「わっ!?」
「朝はコーヒー派?それともミネラルウォーターとかのほうがいい?」

ふわりとあのいい匂いがする。ゆうべまるで女の子みたいに丁重に扱われたことをまざまざ思い出して、真はますます頭を抱え込んだ。しかも真もわりとノリノリだった気がする。いくら彼女にフられた直後とはいえ、あれはまずいだろってくらいには。

「コーヒーにしちゃうよ」

なんて言って立ち上がった前島が、真を置いてさきに部屋を出る。ぱたんとちいさな音を立てて扉が閉まってから、真はのろのろと顔を上げた。

舌がしびれるくらいにキスしたりべたべたくっついたり思い出したくないくらいあまったるい声で前島の名前を呼んだりしたことをしっかりと覚えて、…覚えてなどいない。わすれた。自分に言い聞かせて、真は深く深くため息をついた。酒は呑んでも呑まれるな、とはよく言ったものである。…けど、けど前島、あいつは殆ど呑んでなかったよな?と思いいたり、再び真は頭を抱える。あいつめ、確信犯か。そして女の噂を聞かないと思っていたらこういう趣味だったのか。しかしいまさらそんなことがあっても後の祭りだった。ここは前島の家で、しかも真はばっちり昨日の事を覚えている。

うわあああ。三流映画のオープニングのように、不慮の一夜を(未遂とはいえ)過ごしてしまった真は、頭を抱えて絶句した。


「真さん、おいで」

ドアの向こうから声がした。いつまでもこうしているわけにもいかないことは分かっていたから、真はのろのろ立ち上がって先ほど前島が消えたドアを開ける。存外に頭痛はしなかった。前島が選んだあの酒はたぶん、そういう酒なのだろう。

広い居間にはカウンタ式のオープンキッチンがあり、ひろい窓はうららかな日差しを存分に引き入れていた。時刻は昼前である。ガラステーブルには湯気を立てるマグがふたつ置かれていて、その手前にある見覚えのある黒いソファには前島が座っていた。

「…」
「…、真さん、怒ってる?」

無言のままの真にそう尋ねた前島には答えず、テーブルをはさんで対角線上に真は腰を下ろした。ブラックのコーヒーに口をつける。インスタントではなさそうだった。

「…、何であんなことしたんだ」

細波を立てるコーヒーを見つめながら、真はぽつりとそう零した。真の人生は、とかくこの男のような色男にかき乱されている気がする。果ては真自身がターゲットになったわけだ。

「真さんさ、すごい親切にしてくれたでしょ。俺が入社してすぐ」
「…は?」

突拍子もない答えに、思わず真はびくりと顔を上げた。入社してすぐ、といえば、また目の前に現れた非の打ちどころのない色男に真が辟易していたころだろう。やさしく、といわれても、真はかれに上司としてやるべきことをした覚えしかない。

「真さんがなんとなく俺のこと苦手っぽいのはわかってたけど。…俺同性に好かれることってあんまりないから」
作品名:草食男子の憂鬱 作家名:シキ