草食男子の憂鬱
志野真が前島勇輝を苦手だと思うのには、理由があった。
前島自体が苦手なのではない。かれのようなタイプの男が、どうにも苦手なのである。もっというのなら、洗練された立ち居振る舞いもしっかりと心得ている一般教養も、果てはどんな女性へも嫌味なく振り撒けるお世辞と営業スマイルも、どこをとっても完璧な色男であるところが。
前島は二年前に真の勤める会社に入社してきた人間である。真は短大を卒業したあとすぐに今の会社に入ったから、もう五年目だ。そんな真に初めて出来た部下が前島だったのである。初めて見た時から、ああこいつは苦手だ、と、真はそう思っていた。
前島と同い年でありながらどこに出しても恥ずかしくない押しだしの良さと涼しげで愛想のいい笑顔。仕事はテキパキとこなすし人並みを遥かに越える成果を上げる。…のちの飲み会で上司から真が聞いたところによると、前島は社長直々にヘッドハンティングの標的にした言わば期待のホープであるらしい。有望な新入社員を、早いうちに引き抜いてきたというわけだ。社としてはこれからじっくり育てるつもりだから、まずは低いところからキャリアをスタートさせたがっている、ということだ。つまり何か万一のことがあれば真が責任を負うために、上は前島を真の部下にしたらしかった。それを聞いた時はろれつが回らなくなるまで呑んだものである。やっぱりあいつは苦手だ、とこころのそこからそう思った。
いまは前島は真の部下ではない。すでに同僚の地位にまで上り詰めている。たぶん近いうちに、今度は真が前島の部下になるはずだった。
どうして真は色男が苦手なのか。それにも実は、歴とした理由がある。高校時代からいままでずっと、真の恋人はすべて前島のような男と浮気をした末に真を捨ててそちらに走ってしまっているのだった。自分が『キープするのに都合のいい男』であることについてはいいかげんに真も分かってはきていたが、毎度毎度かれのように非の打ちどころのない、たしかに自分とくらべたらそちらを取るのに決まっているような男に彼女を取られては人間不信、もとい色男不信にもなるというものである。
いい人そう、とか、やさしそう、とか真はよく女性社員たちに言われていた。それは特段悪いことではないと思う。ちょっと垂れ目なふしのある真の人好きのする表情は、事務のおばさんがたにとくに評価が高い。ただ前島が隣に並んでしまえば、もう引き立て役になるしかないというのが実情だった。
早く出世して別の部署に移ってくれ、といつもこころのうちで真は祈っていたのだけれど、前島は元・上司である真によく相談を持ちかけたり呑みにいこうと誘ったりとコミュニケーションを取りたがる。だからそのたびに真は、今まで振られた女性の顔を思い浮かべながら劣等感に苛まれる羽目になっていたのだった。
これでいいと思う?と非の打ちどころのないプランを相談しにくる前島の、その整った容貌。なんの香水だか知らないけれどいつも漂わせているさわやかだけれどほわんと甘い香りに、同じ格好なのに真のそれとまったく違って見えるスーツ姿。それに触れるたびに真は、彼女が真を捨てて走った男の顔を思い浮かべることになってしまう。
今も、そうだった。
「…ごめんね。他に好きな人が出来たの」
彼女が指定したバーにつくなり告げられた言葉がそれである。どこかで分かっていたけれど、それでもショックなものはショックだった。二年ほど付き合い結婚も意識していた彼女だっただけにひとしおである。真は長い長いため息を吐いて、誰?と訊いた。きっとまた前島のような色男なのだろう。やさしそう、と言われるだけあって、昔から何故だか真と交際する女性は釣り合わないほどの美女が多い。いつもその浮気相手は、真よりよっぽど彼女たちに似合っていた。
「…職場の人」
「…、いつから?」
「……去年の、冬」
半年も前の話をされて、思わず真は苦笑する。結婚したい、と思っていたのは、きっと真だけだったのだろう。ひとのよさそうな、ある程度稼ぎの安定しているサラリーマン。彼女にとっての真は、きっとそんな存在だ。からん、と手元のウィスキーが音を立てた。半分以上一気に飲み干して、ゆっくりと真は店内を見回す。こじゃれたバーだ。彼女もまた、その男と来たのだろうか。少なくとも真の知る限りの彼女の趣味ではない。
まだ若いマスターがカクテルを作っているむこうを眺めたところで、真はひゅっと息をつめた。黙りこんでいた彼女が何事かと顔を上げる。
「…!」
バーカウンタに腰掛けて、ひとりでグラスを傾けている男がいた。目が合う。…なんてことだ、と口のなかで呟いて、ぐしゃりと前髪を掻き混ぜた。だから色男は嫌いなのだ。こんなお洒落なバーが、ひどく似合っている。―――前島だった。
聞かれていただろうか。不安になってそっと耳を澄ませると、前島の後ろ側のボックス席で話している女性二人組の会話が漏れ聞こえてくるのがわかる。この分ならきっと聞かれて居たに違いない。きっと前島はあとで真に、次があるって、なんて声を掛けるのだろう。かれらしく嫌味のない、それでいて恰好のいいしぐさで。
「…、俺じゃだめだった?」
不安そうな顔になった彼女に、そっと尋ねてみる。これ以上聞いても傷つくのは自分だと分かっていたくせに、そう言わずにはいられなかった。俺じゃ、だめなんだろうか。前島みたいじゃないと。しかし濃い茶色の巻き髪を振った彼女は、囁くように応えるだけ。前の彼女もそうだった、と、真は苦く思い出す。
「……ごめんね。」
彼女が真の好みではない香水の匂いをさせながらバーを出ていった。テーブルに肘をついて項垂れていると、間もなくしてマスターがそっと声をかけてくる。お客さん、と肩を叩かれ、思わず顔を上げた。真っ赤なカクテルがすっと滑りだされる。
「あちらのお客さんから」
マスターが指を差したのは、やはりというべきか前島だった。
かるくグラスを掲げた前島が、僅かに残っていた青いカクテルを呑み下して立ち上がる。殴りつけたくなるくらい決まっていた。もういっそすがすがしいくらいの気分で、真はそちらを見ないように苦心をする。
「…追いかけないの?」
「お前みたいだったら、そりゃ追い掛けて後ろから抱きしめる、なんてのが似合うかもね」
ごく自然な動作で前島が彼女の座っていた椅子に腰を下ろした。あんまり強くないの、でも甘くないやつね。なんてカッコよくカクテルを注文してから、頬づえをついて真の横顔を眺めている。前島はなにも悪くないのにまた例の劣等感を覚えながら、真は苦々しく下を向いた。思ったよりアルコールのつよいカクテルは驚くほど呑みやすい。
「こっちにこれ、同じの」
「…前島、俺、今日そんなに」
「俺持ちで。…いいでしょ?」
瞬く間に空になってしまった真のカクテルグラスをマスターに返しながら、前島は悪戯っぽく笑った。きっと女はこんな表情に惹かれるのだろう、と思いながら、グラスに残っていた飾りのチェリーを頬張る前島のきれいな顔をにがにがしく見る。
「…お前とは呑みたくない」
「なんで?」
「……」