新世界
シャワーを浴びて書類を読み終えてから横になろうと思っていたが、此処に来たら急に疲れが押し寄せてきた。考えてみれば、今日一日色々なことがありすぎた。
ルディは大丈夫だろうか――。
考えまいとしても様々なことが頭に浮かんでくる。だが、疲労には勝てなかったのか、自分でも気付かないうちにぐっすりと眠ったようだった。
眼が覚めたのは午前七時となる少し前だった。ごそりと隣のベッドで寝ていた誰かが起き出した音で、眼が覚めた。あと十分、こうして横になっていたい。だが、シャワーを浴びに行かなければならないから、そろそろ起きなければ――。
ベッドから起き上がる。側に置いておいた上着を手に持って、仮眠室を出て同じ階の奥にあるシャワー室へと向かう。其処で暖かい湯を浴びていると、漸く眼が覚め、頭が冴えてきた。
本部に行くと、ハッダート大将とラフィー准将が居た。ムラト大将は今、シャワー室に行ったというから、俺と入れ違えになったのだろう。
「レオン。その制服で会談に臨むつもりか?」
ハッダート大将は俺の制服をまじまじと見つめて言った。帝国の収容所に連れて行かれた際、制服を脱ぐように告げられ一度は没収されたが、その後すぐに綺麗にクリーニングされて戻って来た。しかしそれを渡される時、着用は控えるよう告げられていたので、実質的にはリヤドで身につけた昨日一日しか着てはいない。だが、険しい山を越えたためか、少々薄汚れていた。
「俺の制服と取り替えよう。折良く今日、クリーニングから戻って来たばかりだ。縫い付けてある階級章は同じだから問題無い。勲章と職名章は取り外せることだし……」
「……ではアジア連邦との会談の時だけお借りします。議長との面談ではこれで充分ですよ」
そういう訳にはいかんだろう――そう言いながら、ハッダート大将は自分の胸元の勲章に手をかける。ちょうどその時、ハリム少将がおはようございます、と挨拶と共に入室した。
「長官、制服をお持ちしました」
ハリム少将は手にしていた紙袋から、ビニール袋に包まれた制服を取り出した。
「気が利くな。ハリム少将」
「いいえ、私ではなくムラト次官からです。今朝、此方に来る前に長官の制服を調達してくるよう言われていましたので……」
「嫁に迎えたいぐらい気の回る方だ。ムラト大将は」
ハッダート大将の言葉に思わず噴き出す。ありがたく制服を受け取って、執務室で着替えた。それまで着ていた制服から勲章と職名章を外して、新しい制服の同じ場所に取り付ける。それから袖を通して、机につく。
程なくしてムラト次官が本部に戻ってくる。食事を済ませて、それから議長の許に向かった。議長は無事の帰還を喜びながらも、長官としての配慮が足りないのではないかと釘を刺した。議会関係者は概ねそのような苦言を漏らしていた。彼等の言う通りではあるが、今のところは右耳から左耳へと流しておくことにした。それから外交部の長官の許に行き、事の次第を語る。迷惑をかけた旨を謝罪し、その後同じように他の部署も練り歩いた。殆ど五分刻みで、動いていく。
午後二時からは、アジア連邦のフェイ次官との会談が予定されていた。非公式の会談ということで、ホテルの一室での会談となっている。一時になって食事を手早く済ませ、一時三十分にムラト大将、ハリム少将と共に車で本部を発つ。フェイ次官には俺が戻ってきたことを昨晩のうちに伝えておいた、とムラト大将は言った。
「会談は一時間取ってある。大まかな作戦案についての打ち合わせが主だから、一時間で充分だろう」
ホテルに到着すると、支配人が出て来て会談の行われる部屋へと案内された。最上階の一室だった。部屋に到着して、椅子に腰掛け、資料にもう一度眼を通す。十分もそうしていなかった。二時五分前に、部屋の呼び鈴が鳴った。ハリム少将が応対に出る。二人分の足音が聞こえて来る。しかし、部屋に入ってきたのはフェイ次官一人だった。
「アンドリオティス長官。御無事で何よりです」
フェイ次官は側に歩み寄って、俺の無事を歓迎してくれた。フェイ次官にはこれまでにも何度か会っていて、確かに権謀術数に長け侮れない人物ではあるが、俺には悪い人物にも思えなかった。まだ若く、将来有望な人物とでも言おうか――。
「アジア連邦よりの援軍、感謝します」
「もう少し早く到着していれば、と悔やんでいたところでした。エスファハーンでは長官自ら奮戦なさったと伺っております」
「おそらく帝国は近日中にも侵攻してくるでしょう。貴国の陸軍が既に防衛戦を張っているということは心強いことです」
ムラト大将はフェイ次官に座を勧めた。作戦案について、ムラト大将が話をもちかけた時、フェイ次官はその前に、とムラト大将と俺を見遣って言った。
「本題に入る前に、是非会って頂きたい人物が居ます。そのうえで、アンドリオティス長官から帝国の状況も伺いたいのです」
ムラト大将が顔を此方に向ける。フェイ次官に頷き返すと、フェイ次官は彼のことはまだ世間には知られていません、と前置いてから言った。
「これから紹介する人物については、我が国の軍のなかでも上層部しか知りません。どうか、そのようにご配慮を」
「解りました。ムラト次官」
俺からムラト大将に同意を促すと、ムラト次官も同じように同意の旨を告げる。少し失礼します、と言ってフェイ次官は立ち上がり、部屋を出た。ムラト大将がそっと俺に向けて囁く。
「ワン大佐が来ているのかと思ったが、どうやら違うようだな。一体誰を……」
二人分の足音が近付いて来て、ムラト大将は言葉を止める。フェイ次官が再び扉を開けて、部屋に入る。その後について、一人の男が入室する。
アジア連邦の人ではないようだった。人種が違う。どちらかといえば帝国の――、西側諸国に多く居住する人種のようで――。
ルディによく似ている――と思った。
「フェイ次官。何故、彼が……」
ムラト大将が立ち上がる。ムラト大将の知った人物なのだろうか。
いや、待て。ムラト大将が知っている人物で、ルディに似ているということは……。
まさか――。
「その理由も全てこれから説明します。アンドリオティス長官、まずは紹介します。三ヶ月前に我が国に客将として招いた、ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン大将です」
ビザンツ王国からの足取りが行方不明だと聞いていたルディの弟が、今、俺の眼の前に立っていた。
新トルコ共和国領に帝国軍が侵攻した――。
その一報が伝えられたのは、先々週のことだった。帝国が新トルコ共和国に宣戦布告したと聞いた時から、近いうちにその時が来ることは解っていた。
俺が驚いたのは、帝国が共和国に宣戦布告をしたことの方だった。
あのルディが開戦を認めた――。
ルディは変わってしまったのだと一度は納得した。皇太子としての権力を帝国内外に知らしめるために、侵略を企てたに違いないと思った。
だが――、帝国軍の戦法が報じられるにつれ、不可解になった。新トルコ共和国を獲得するつもりなら、シーラーズ攻略後にそのまま首都に乗り込めば良いことだ。何故、エスファハーンに立ち寄ったのか。何故、長官を捕虜としたのか。