新世界
ロイは私が意識不明の状態となった時も、周囲にはそれが漏れないように取りはからってくれたらしい。私が復調したら、また元のように復帰できるように。生死の境を彷徨う危険な状態にあったことは、皇帝でさえ知らず、ロートリンゲン家の者しか知らないことだった。
ロイに身勝手だと言われてから少し反省した。私の身体は私のものではあるが、それを支えてくれる人々がいることを失念していた。
「解っているよ。ミクラス夫人。反省して少し仕事を減らすことにした。副宰相のオスヴァルトに分掌出来るものは頼む」
「是非ともそうなさって下さい。……尤も私としてはこの際、お務めをお辞めになって御屋敷でのんびり過ごしていただきたいところですが……」
「それは出来ないな。もう少しやりたいことがある」
「そう仰るだろうことは解っています。ですが、私としては言いたくなるものですよ」
微笑み返して、カップを持ち上げる。ハーブの入った紅茶は仄かに甘かった。
ミクラス夫人はこの辺も大分住人が増えたと言った。確かに子供の頃は鳥の囀りしか聞こえないような場所だった。近くに観光地が出来たせいだろう――そう答えると夫人は少し口を尖らせて言った。
「私は政治のことなど解りませんが、観光地が出来たのはフェルディナント様が領地を皇帝にお返しになったからですよ。この辺り一帯の領地もロートリンゲン家の所有地でしたのに、帝都の邸宅以外は手放してしまわれるのですから」
「そうしなければいずれ土地が不足する。……いや、既に帝国内の人口に対して土地は不足気味だ。だが土地を持っている旧領主達が土地を返上すれば、それも大分緩和される。実際、人々の住宅事情は施行前の一昨年と比べて格段に良くなったからな。まだ土地を返上していない者もいるが彼等にもこれから理解を求めていくつもりだ」
「立派な理想をお持ちなのは理解していますが、人の恨みをお買いにならないように」
ミクラス夫人がそう心配するのには理由があった。法令を出した直後、宮殿からの帰り道に暴漢に襲われるという事件に遭ったことがあった。拳銃とナイフを持った若い男で、何者かが雇った暗殺者のようだった。尤も彼等からすれば、私がその男を撃退したことは計算外だっただろう。自分の身は自分で守れという父の教えのもと、ロイほどではないが私自身もそれなりに武芸を身につけていた。たとえ数人の暴徒に囲まれようと自分の身を守ることは出来る。とはいえそれ以来、ロイが私と共に出勤することが多くなった。私を案じてのことだろう。暗殺者も流石にロイには手を出そうとしなかった。ロイの武勲を知っていれば、容易に手を出すことは出来ない。忽ちに捕らえられてしまうことが解っているのだろう。
「ミクラス夫人。来週末には帝都に戻る。そのように準備を整えてもらえるかな」
「承知しました。体調の方はもう宜しいようですからね」
「おかげで完全に復調した」
ミクラス夫人は満足そうに微笑む。ふと壁にかかった時計を見上げると、午後四時を過ぎたところだった。この時間になれば陽射しも大分穏やかになる。ぶらりと外を歩いて来ようか。
「少し散歩してくる」
「行ってらっしゃいませ」
時計と携帯電話を手に、邸を出る。この邸は小高い森のなかにある。小道を歩いていると、光を受けた木の葉が、足下に斑に影を作っていた。
森のなかを散策するだけでも軽い運動にはなる。そして町に降りるには三十分ほど歩かなければならない。それでも何となく町の様子を見てみたくて、足は自ずと町への道に向いていた。
この町は、町全体はさして大きくもない。どちらかといえばこぢんまりとした町だが、海が近いということもあって市場には様々な物産が並んでいる。環境上の理由から航空機での輸送は政府物資に限られており、生活物資は主として海上輸送が原則となっている。この町の近くに大きな港があり、其処から海産物をはじめ南方の果物や茶が運び込まれてくる。そのため、此処は帝国内でも豊かな地域として知られていた。
しかしそうした豊かな地であるが故に、闇取引というものが横行する。港にも近いこの地域では、住人達の近付かない場所がある。大きな通りに面した路地裏はそうした取引のために使用されることがあって、犯罪の温床となっていた。港の周辺は警備を強化しているのでそうした犯罪は大分防げているようだが、港から少し入ったこの地では港ほどの警備を行っていない。この地域まで警備を強化しても、今度は別の場所で取引が行われる。行政と犯罪者との鼬ごっこのようなものだった。
そうした犯罪が行われる一番の原因は、物資が不足しているからに違いない。帝国は他国と比べて裕福だと言われているが、それは上級官吏や貿易商といった一部の人間に過ぎない。内陸の北方、南方にいくほど、政府からの援助を受けなければ生活の出来ない住民が増える傾向にある。北方は冬は雪に大地を覆われ、農作物は育たない。南方は暑すぎて、常に水が不足気味で農作物が育たない。北方も南方も資源が乏しいため、地域内で経済を完結することが出来ない。政府からの援助が無ければ物が流れてくることもない。
帝国に物が集まってくるのは、主に港の周辺や鉱山のある帝都付近のいくつかの町だけだった。そのため貧富の差は年々拡大している。貧しい者達は闇取引を行う業者と繋がり、自分の子を売る。または臓器を売る。どちらも法的に罰せられることだが、そうしなければ暮らしが成り立たない。貧富の差を解消しなければ、これからますます犯罪は増えるだろう。人口は増えているのに、食糧も資源も何もかもが不足している。他の省とも相談して食糧や資源の確保に努めているが、それでもまだ足りない。
ならば領土を拡げるしかない――という極論を言う者も少なくない。この百年、帝国は他国を侵略していない。帝国が軟弱になってしまったと不平を言う守旧派もいるが、侵略をしないことで、帝国は国際的な信用を得ている。此処でそれを破り他国を侵略しては各国からの避難を浴びることになる。そうなると貿易にも支障が出る。
『侵略ではない。此方の条件を飲んでくれる国と提携を結べば良いこと』
軍務省の中には前々からそうした声がある。彼等は侵略という言葉をただ単に使っていないだけだ。此方の条件――帝国に有利に働く関税で交易を行ってくれる国などありはしない。彼等はそれならば帝国の威信を見せつけろと言う。そしてこのところの帝国は弱体化していると言うのだった。簡単に言ってくれる――と思う。
その彼等を抑えているのが、軍務省の二人の長官である海軍長官のロイと陸軍長官のヴァロワ卿――ジャン・ヴァロワ大将――だった。軍務省長官がこの二人でなければ、侵略を求める声はもっと大きくなっていることだろう。
「アメリゴから受け取ったものがある筈だ!知らぬ振りをするな」
突然、鋭い男の声が聞こえて来た。ひっそりと佇む古いビル街の一角から聞こえて来たようだった。麻薬売買の現場かもしれない。足音を忍ばせて其方へと向かった。すると別の男の声が聞こえて来た。
「先刻も言ったように俺は何も知らない。アメリゴという者も知らない。人違いだろう」