新世界
「お話の最中だったようですね。失礼しました」
皇女マリは申し訳無さそうに言いながら、歩み寄る。皇帝は眼を細めて皇女を見た。
皇帝は三人の娘達を溺愛していた。皇妃カトリーヌとの間になかなか子供が出来ず、皇帝が40歳となった時に漸く待望の第一子が誕生した。その時の皇帝の喜びようといったら無かった、と今は亡き父が言っていた。第一皇女が誕生して二年後に第二皇女が、さらにその三年後に第三皇女が誕生した。皇帝の許に男子は誕生しなかったが、皇帝は三人の娘を非常に可愛がっていた。
「ちょうど話が終わったところだ。どうかしたのか、マリ」
皇女マリは外出許可が欲しいのだと皇帝に告げた。皇帝は困った様子で外出を強請る娘を見つめる。街に出ると誘拐の危険もある、そう渋っても皇女マリは引き下がらなかった。
「どなたかに護衛を頼みます」
その時、ちらと皇女マリは此方を見た。それで全てを察することが出来た。彼女はロイと共に街に行きたいのだろう。もしかすると私が皇帝の許に居たから、この部屋にやって来たのかもしれない。
「護衛といっても……。万が一にも大事が生じたら……」
「街はそれほど危険な場所でもありませんわ。だから是非とも許可を」
皇女は同意を求めるように皇帝に言い寄る。皇帝は困った顔を浮かべながら此方を見て尋ねた。
「フェルディナント、最近の街の様子はどうだ?」
「平穏で犯罪の発生率も低く、マリ様がその御正体を知られずに街を行くのでしたら問題は無いかと思います」
「ふむ……。では護衛としての適任者は」
「身内を推薦して申し訳ないのですが、私の弟のハインリヒを任に当たらせては如何かと思います」
「適任といえば適任だな。ハインリヒの武勇は誉れ高い。ではフェルディナント、お前の弟に極秘で頼んでもらえるか」
「御意」
皇女マリは嬉しそうに微笑む。その表情から察するに、全て彼女の計画通りに働いたのかもしれない。
「それでは私はこれで失礼致します」
二人に最敬礼して部屋を退室する。何とか皇帝の前では取り繕えたものの、具合が悪かった。王宮内は空調によって一定の気温が保たれているのに、額から汗が噴き出していた。それに先程から息苦しい。皇帝からサインを貰った書類を内務省に提出するのは、オスヴァルトに任せたほうが良いかもしれない。こうして歩くことさえきつい――。
「お疲れ様です。閣下……。閣下!?」
宰相室に戻るのが精一杯で、扉を開けて一歩踏み込むなり、その場に座り込んだ。情けないことにもう一歩も歩けなかった。激しい頭痛と吐き気、それに眩暈。息が上がったまま、落ち着かない。オスヴァルトが何か言っていたが、それさえも理解出来なかった。
もしかしたら突然死というものなのかもしれない――そう思った。こんなに具合の悪いことはこれまでに経験が無かった。無理をしすぎてしまったのか。
だが、たとえこれで命を落としても後悔は無い。私はやりたいことをやり遂げた。一日一日を悔いの無いように生きてきた。だからこのまま命を落としたとしても後悔は無い――。
心地良い風が窓から流れ込んでくる。手にしていた本に栞を挟んで窓辺に移動すると、潮の香りがふわりと鼻腔に達する。太陽の光を浴びて、海がきらきらと輝いていた。
もう少し視線を先に遣ると、人気の多い砂浜が見える。人々が夏のヴァカンスを楽しんでいた。色とりどりのパラソルが並び、耳を澄ませば楽しそうな声も聞こえてくる。帝都もこの町も同じ時間なのに、此方の方が長閑な時間が流れているようだった。
「フェルディナント様。下でお茶でも如何です?」
ミクラス夫人がやって来て、そう問い掛ける。頷いて窓を閉め、階下へと向かう。
此処は帝国西部にある海に面した町――マルセイユだった。この地に別荘を有しており、長期休暇には此方に足を伸ばすことも多い。
宮殿で倒れたのは、今からふた月前のことだった。側に居たオスヴァルトがすぐに医師とロイに連絡を入れてくれた。処置が遅れれば、命は無かったかもしれないと後になって医師に告げられた。私自身、あの時のような苦しさは嘗て味わったことがなかったので、死ぬかもしれないと覚悟していた。
宰相室で応急処置を受けて起き上がれるようになってから、ロイに連れ帰ってもらった。意識が朦朧としていたようで、そのことははっきりと覚えていない。どうやって寝室に行ったのかさえ解らない。明瞭なのは、倒れてから三日後のことだった。呼び掛けられたような気がして眼を開けると、ミクラス夫人が力の抜けたような安堵の息を吐き、ロイも同じように息を吐いた。聞けば三日間、生死の境を彷徨っていたのだという。私はまだ生きていた。
生きていたとはいえ、私の知らぬうちに身体には随分な負担がかかっていたようで、それから一週間は、自力で起き上がることも出来なかった。こんな状態で職務に復帰することも出来ず、ロイの手によって休職願が提出された。暫くは全てをオスヴァルトに委ねるしかなかった。オスヴァルトは数日に一度、自宅を訪れては相談と報告をしてくれた。私と同じような激務であったにも関わらず、オスヴァルトはいつもと変わらぬ様子だった。
健康でありさえすれば、これぐらいの激務には耐えられただろう。そう考えると、彼やロイの身体が羨ましかった。私の身体は二週間が経っても元のようには動かなかった。歩こうとしても足に力が入らず、暫くの間は車椅子や杖に頼った。このままでは休職期間を延長するどころか、辞職しなければならないかもしれない。弱り切った身体に鞭打とうとも、却って体調を崩すばかりだった。
そんな折、医師から空気の良い地での療養を勧められた。環境には細心の注意を払っているとはいえ、帝都は人口が多いからどうしても他の町より空気が濁る。早く復帰するためにも空気の良いところで静養した方が良い――と、医師だけでなくミクラス夫人やロイからも勧められて、そうすることにした。移動は帝都から車で丸一日かかり、長時間の移動はやはり身体の負担となって二日ほど寝込むことになってしまったが、それからはこの長閑な町の空気と景色に癒されたのだろう。身体を休めてきちんと食事を摂るという規則的な生活を送ることで、激減していた体重も元通りになった。そしていつしか杖も必要なくなり、一人で外を散歩出来るようにもなった。
「帝都にお帰りになってもまた以前のように御無理をなさってはいけませんよ」
ずっと付き添ってくれたミクラス夫人が、毎日のようにそう言い聞かせる。今回のことでは周囲に大分迷惑をかけてしまった。ミクラス夫人の言うように、無理の出来る身体ではないのだから、今後の執務のことは少し考えなくてはならない。先月、この町に発つ少し前にロイが寝室にやって来た時のことだった。死んでも仕方がないと思っていたと言ったら、ロイは激しい剣幕で怒った。どれだけ心配かけたと思っている――と。
『俺もミクラス夫人も皆、お前の意識が戻らない間、気が気でならなかったのだぞ!?それをいつ死んでも後悔が無かった、だと!?随分身勝手な言葉だ』