新世界
司法長官だけでなく、上級官吏には守旧派が多い。そのなかにはハイゼンベルク卿のように帝国の行く末を考え古きを守ろうとする者もいれば、自分の現在の地位を守りたいがためだけにそれを押し通す者も少なくない。新ローマ帝国は、貴族制を一応は否定しているが、明らかにその流れがある。建国当初から皇族に仕えてきた者はその当時の恩賞として、広大な領地を所有しており、官吏登用の際も優遇される。私やロイが若くして帝国の上位の立場に躍り出ることが出来たのも、ロートリンゲンという家名が守旧派達の口を閉ざさせたという側面も否定出来ない。特にこの私が宰相の地位に就くに当たっては、内部で相当揉めたらしい。試験の出来が良くても若すぎる、省を統括する宰相には不向きだという声のなか、皇帝が興味を示した。そして、皇帝の前で試問が行われた結果、私が指名を受けた。皇帝の強い要請もあり、また反対していた守旧派達も皇帝が私を気に入った様子を見て、25歳の若い宰相など前例が無いがロートリンゲン家ならばという理由で採用を決めたようだった。
「……っ」
皇帝の許から部屋に戻った途端、頭痛に見舞われた。眼の奥から頭を貫かれたかのような痛みだった。疲労が頂点に達しているのだろう。
「閣下?」
「先程のアラン・ヴィーコの件は片付いた。納税に関する法案修正はどうなっている?」
「ちょうど内務省から修正案と資料が回ってきたところです。ですが閣下、具合でも……?」
「大丈夫だ。今日中に内務省の修正案に眼を通しておこうか」
オスヴァルトは封筒を取り上げて、中の書類を此方に手渡す。五十枚ほどの随分な量があった。何とか今日中にこれに眼を通しておけば、来週は少し楽になる。オスヴァルトに休暇を与えることも出来るだろう。
頭痛はまだ続いていた。机の中にある頭痛薬を飲み、五分ほど眼を閉じてからまた書類に視線を落とす。
午後11時になって漸くそれを読み終わり、帰宅の途についた。ミクラス夫人が頻りに身体を案じていたが、いつものことなのでそれを適当に受け流して、入浴を済ませ、ベッドに入った。
私のような体質の人間は、今この地球上に十人に一人の割合で存在しているという。そう珍しいことでもない。環境の激変が原因で遺伝子に異常が生じるのだと言われているが、原因は未だ判明していない。ただこの体質に共通していることは、地上の地形が変わって、それ以後に地上で生まれた者だということだった。環境の激変が遺伝子に作用したと言われるのはこのためだった。
そしてこの体質で生まれた場合、50歳まで生きることは難しい。それどころか成人に達するまで生きられないケースや、たとえ成人を迎えられても外に出ることさえ出来ないケースもある。私のように加齢と共に症状が緩和していったケースは非常に少ない。
しかしだからといって完治したとはいえない。この体質は時として突然死を引き起こす。それまで何の症状も出ていなかったのに、歩いている最中や就寝中に心肺停止を引き起こしたという話もよく聞くことだった。私の身体も、もしかしたらそういうことが起こるかもしれない。たとえ突然死を免れたとしても、長生きは出来ないだろうと思う。40歳まで生きることが出来たら充分かもしれない。
だから、せめて動けるうちは、自分のやりたいように生きようと思った。自分の出来ることを精一杯に、やりたいだけやれることを――。
「ルディ。顔色が悪いんじゃないか?」
自宅から宮殿まではそう遠い距離ではないから、何か急用でもなければ徒歩で行く。またロイと一緒に出勤することもいつものことだった。
ロイは私の顔を見つめて言った。確かに調子は悪く、ミクラス夫人からも顔色の悪いことを指摘されたが、大丈夫だと押し切って邸を出た。今週に入って体調が芳しくなかったが、今日は昨日にもまして体調が悪かった。激しい頭痛と今にも嘔吐してしまいそうな気持ち悪さ――、こんなに具合が悪いこともここ数年無かったことだった。
「疲れが出ているのだろう。来週は少し休みを貰うことにする」
「……まだ週の半ばにも達していないではないか。休まなくて大丈夫か?」
「ああ」
「宰相殿が倒れたとなると執政にも影響する。今やこの国を実質的に動かしているのはお前だといっても過言ではあるまいに」
「不敬極まりない発言だぞ、ロイ」
「お前と俺、内輪だけの話だ。大事な身なのだから、無理はするなということだ。今日は早めに帰宅して、ゆっくりと休めよ」
執務室では、オスヴァルトが法案修正の準備を調えていたところだった。この処理だけは今日中に済ませてしまいたい。そしてロイの言う通り、今日は早く帰ろうと思った。具合は最悪で、手洗いで何度も嘔吐し、時間が経つごとに座っていることさえも辛くなってきた。それでも調整した修正案を皇帝の許に提出し、許可を貰って、内務省に提出するまでは帰りたくなかった。
「閣下。お顔の色も優れない御様子です。具合が悪いのでしたら、お休み下さい」
片手で痛む頭を抑えながら最後の調整をしていると、オスヴァルトは心配そうにそう言って、水を持ってきた。礼を述べてコップを受け取った手は頭痛のせいだろう、小刻みに震えていた。
「やはりお休み下さい。残りの作業は指示していただければ私が務めます」
「あとこの二ページの確認を終えたら、皇帝に提出して許可を得るだけだ。済まないが今日はこの処理を終えたら帰宅させてもらう」
オスヴァルトは気の良い男だった。宰相には副宰相を任命する権限が与えられる。副宰相といっても、宰相が健在の限り、その職務内容は秘書官と殆ど変わりない。ただ宰相が不在の時には、宰相代理としての権限が与えられる。宰相となった時の最初の仕事が副宰相の任命だった。私が若輩だから、年長者を副宰相に据えることも考えたが、守旧派ばかりで適任者が居なかった。宰相たるに相応しい能力を有した人間で、且つ私と同じような考えを持っている人間が良い。人選に迷った挙げ句、ひとつ年下ではあったが、当時内務省に務めていたオスヴァルト・ブラウナーを指名した。オスヴァルトは議会を内務省から切り離した方が良いという帝国内にあっては進歩的な考え方の人間で、私とよく似た思想を持っていた。元は開発省に務めていたが、次官補と口論をし、一度は開発長官から職を解かれたという異例の経歴を持つ男でもある。有能な男だが、自分の哲学を押し通すという意味では頑固な男だった。
「さて、では皇帝にこれを提出してくる」
処理を終えた書類を携えて皇帝の許に行く。宰相という身分にあるため、日に一度は皇帝の許に行かなければならなかった。皇帝は書類を一読するとすぐに許可をくれた。これで災害地への納税の猶予が認められることになる。
「ところでフェルディナント。顔色が悪いぞ」
「申し訳ございません。少々体調が優れないので、今日はこの処理を終えたら帰宅させていただくつもりでした」
「そうした方が良い。お前はフアナと同じで先天的虚弱だ。無理をしてはならん」
「ありがたき御言葉、感謝致します」
「あの病も完治する術があれば良いのだが……」
皇帝が言葉を止めたところへ、扉を叩く音が聞こえた。返事をするより早く扉が開く。皇女マリだった。