新世界
「どの国が相手であれ、戦争は戦争です。現職に就いて経験の浅い者は連れていきませんよ」
「帝国軍が首都に攻め込まなければ、な」
「ええ……」
エスファハーンで帝国軍を食い止められなければ、テオだけではなく、まだ入隊して間も無い若い兵士達も戦闘に参加しなければならなくなる。そうなると、犠牲は相当数に上るだろう。
何としてもエスファハーンで食い止めなければ。
新トルコ共和国と国境を接する町ラッカは、夏冬の寒暖差が激しく一年中乾燥する地域であってその住みにくさから、人口もそれほど多くない。この地に足を踏み入れたのは今回が初めてのことで、地理上の特色は本でも読んだことがあったが、こんなにも乾いた空気だとは予想していなかった。部屋のなかを加湿していないと、喉を痛めそうになる。
「宰相。カサル大佐から連絡が入った。ダフナー砂漠の中間地点を過ぎたとのことだ」
二度扉がノックされ、どうぞと入室を促すとヴァロワ卿だった。ヴァロワ卿は側に歩み寄ると、机の上に広げてあった地図を指差し、全て予定通りに進んでいる、と付け加える。
「隊員達の様子はどうです?」
「脱落者も無く、健康状態も良好だと」
「そうですか。……では予定通りに」
「ああ。本日午後四時に進撃を開始する」
午後四時にラッカの北にあるヴァンから、新トルコ共和国の町シーラーズに進撃を開始する。既に、ヴァンには五十万の兵士が待機していた。シーラーズは新トルコ共和国のなかでも資源の豊富な町であり、シーラーズを攻略すれば、当面の補給を心配する必要は無くなる。略奪と誹られても仕方が無いな――と思う。だがそれが戦争というものだった。
そして、此方がシーラーズに進撃することを、新トルコ共和国側も察知しているに違いない。
だが、本当の目的はシーラーズの攻略より、第二都市エスファハーンにあるとは予想もしていないだろう。
宣戦布告から五日が経過した。この五日、ヴァンに部隊を控えさせながら、わざと進撃を控えていた。それは、トニトゥルス隊をこのラッカから出立させ、新トルコ共和国に侵入させるためだった。
新トルコ共和国の眼に止まらないように、出来るだけ少数の部隊で、且つこの過酷な作戦を遂行できる部隊でならなければならない。その役目は、帝国ではトニトゥルス隊にしか果たせないことだった。
トニトゥルス隊は帝国の誇る特殊部隊で、エリク・カサル大佐を隊長として、隊員百名で構成されている。今回の作戦では、この他に各部隊から選りすぐりの精鋭達を加えて百五十名でラッカを出立した。
その彼等がラッカからダフナー砂漠を抜ける。ダフナー砂漠は帝国領のラッカと新トルコ共和国領のケルマーンに広がっていて、ケルマーンの南方の約八割占める。この砂漠を抜け、人口の少ないケルマーン南部からラーバルのザークロス山脈に入り、この山脈を北上していけば、第二都市エスファハーンに入ることが出来る。
帝国が宣戦布告した直後、トニトゥルス隊はラッカから出立した。敵国の領土に侵入したとしても、此方は宣戦布告をした後なのだから国際的な非難は免れる。そう考えてのことだった。
一方、新トルコ共和国側はまだ何も動きを見せない。つまりは、既に新トルコ共和国領のケルマーンに此方の特殊部隊が入り込んでいるということを察知していないのだろう。
砂漠は監視の眼を誤魔化しやすい。ダフナー砂漠のような広大な砂漠から侵攻するとは考えていないだろう。砂漠は隊員達の体力を奪う。その後に戦闘が控えていることを考えれば、誰もが避けることだった。
そのため、充分な期間を用意した。宣戦布告した4月25日に特殊部隊がラッカを出立する。翌日にダフナー砂漠に入り、予定では5月7日に砂漠を抜ける。その二日後の9日にザークロス山脈に入る。部隊はその山中で、此方からの連絡を待つ。10日にシーラーズの中域まで侵攻し、攻略の目処が立ったら、特殊部隊がエスファハーンに入る。予定ではこれが5月12日となっている。
百五十名――砂漠と山脈を抜けるうち二、三割程度が隊から脱落することを考えたとして百名余りが、エスファハーンの官庁に侵入する。とはいえ、新トルコ共和国もシーラーズ程ではないにせよ、軍隊を置いて守備を固めているだろう。だがその頃にはシーラーズを攻略出来るだろうから、シーラーズに進撃した部隊が隣町ナーイを抜けてエスファハーンに向かうことが出来る。
エスファハーンを守る兵とはシーラーズ進撃の兵士達が戦い、トニトゥルス部隊は政府要人を捕虜に取る――これが今回の作戦の一部始終だった。
我ながら姑息な作戦だと解っている。政府要人を人質にするなど人道に反することだろう。しかしそうしなければ、帝国は勝てない。
「このまま予定通りに実行出来たとすると、来月13日にはエスファハーンに向かうことになる。宰相、本当に貴方も行くのか?」
「ええ。重荷にならないよう務めますから、私も同行させて下さい」
「重荷どころか予想外の力添えにはなるが……」
「あちら側の人質とならないように気を付けますよ」
ヴァロワ卿は私の身体を案じていた。空路で帝都からラッカに入った時、そのあまりに乾燥した大気に咳き込んでしまったのが原因だろう。ヴァロワ卿はラッカの国境付近を視察に行ったり、ヴァンに赴いて兵士達を激励したりしたが、私はこの部屋で彼からの報告を待ち受けるだけだった。尤も私が外に出たところで、ヴァロワ卿に迷惑をかけるだけだから、大人しく此処で待つことにした。
今回の戦争の総指揮として、戦陣に加わることになった時も、ヴァロワ卿は帝都から通信で指揮を執ってくれれば良いと言ってくれた。それを戦陣に加わりたいと言ったのは私だった。
どれだけ報告を受けても、現地の状況はその場に居ないと把握し辛い。況してや、今回の作戦は状況が少しでも変われば、作戦を即座に変更せざるを得ない。ヴァロワ卿やヘルダーリン卿、参謀本部長のウールマン大将と作戦を吟味したとはいえ、作戦の大筋は私が組み立てたものである以上、その責任は負わなければならない。
戦地に向かう――そのことをミクラス夫人に伝えた時、夫人は顔を強張らせながら、しかし覚悟を決めていたような表情で解りましたと言った。私にとっては意外なことだった。夫人は何が何でも反対すると思っていた。それをどう説得しようか、考え倦ねていたことだった。
『ロートリンゲン家は武門。戦争という事態となれば、主が戦地に赴くこともある。その時が来たら主を送り出さなければならない――、嘗て奥様が私にそう仰っていました』
『母上が……?』
『旦那様や御子様方をいつか戦地に送らなければならない、その覚悟は常に持っておくように、と。ですからフェルディナント様、貴方のお身体のことを非常に案じておりますが……、私は引き留めることは出来ません』
その時、ミクラス夫人は眼にうっすらと涙を浮かべた。夫人はそれを堪えるように両手を確りと結んでいた。
『ありがとう……。ミクラス夫人』
『でも絶対に御無理はなさらないで下さい。これだけ……、これだけは必ず……、私と約束して下さい』
約束する――私はミクラス夫人の握り締めた手をそっと取って、そう応えた。