新世界
「解っています。ですが……、もうこの国が帝国であり続ける必要は無いと思うのです。それに対外的にもこのまま帝政を続けることは出来ません。新トルコ共和国が誕生し、全世界で君主制を採用する国は減少しつつあります。そうなると帝国への風当たりも変わる。帝国は過去の侵略が仇となって、今でも敵国の多い国です。侵略戦争の勝者である帝国は敗戦国に対して、貿易品の関税を高く設定しています。そのため、他国の不満は以前から募っています。そんななか、新トルコ共和国が成立した。彼の国の影響力は小さくありません。世界の流れが一気に共和制へと向かったら……、陛下の今日の御回答から考えるに、陛下は帝国の維持のために戦争という手段に出るでしょう」
「……考えたくも無いが、充分にあり得ることだな。旧領主層の連中も戦争を提言するだろう」
「ええ。それだけは絶対に回避しなくてはなりません」
「そうなると宰相はやはり継承権を拒むことが出来なくなる。フォン・ルクセンブルク家の長男は旧領主層を手厚く保護する考えを持った御仁だ。もし宰相が継承権を拒み、彼に渡ったら、陛下以上の専制君主が誕生することになる」
「権力を得たら人が変わるとも言います。私がそうならないとは言い切れません。陛下がその代で帝政を終えて下されば良いのですが、それも望めないのなら、私も覚悟を決めざるを得ないでしょう」
「此方も尽力する。私やオスヴァルトのような庶民出身の者は宰相の意見に賛同するだろう」
ヴァロワ卿はふと時計を見遣った。私も失念していたが、もう随分な時間となっていた。
「そろそろ失礼する」
「あ、海軍部長官の件ですが、ヘルダーリン大将を陛下に推薦しておきました。近日中には陛下から指名があるかと思います」
「それはありがたい。これで少しは守旧派を抑えられる」
ヴァロワ卿は微笑して席を立つ。身辺には気を付けるように再度私に忠告してから、ヴァロワ卿は帰っていった。
皇帝が私を後継者に指名する。皇女マリの件があるにせよ、異例中の異例に違いない。
確かに私は皇帝から特別の信頼を得ている。宰相に就任してからずっとそうだった。才があると称えられ、常に皇帝の側で執政を行ってきた。皇帝の意見を取り入れながらも、比較的自由に政治を行うことが出来た。
何故、皇帝がこれほどまで私に信頼を置いているのか――、これまでも幾度となく疑問を抱いてきた。才覚のある者を登用し、重用する――この一言に尽きるのかもしれないと思っていた。
私には自信があった。知識が豊富であることに自負があった。皆が遊んでいる間、私はずっと部屋で本を読み漁っていた。文学にはじまり、歴史、政治、経済……、分野は多岐に亘る。邸には書庫があり、特に戦術や戦略に関する書籍は事欠かなかった。それ以外にも、興味を持った本はすぐに取り寄せた。本を読むうえで、外国語の習得が必要な時はそれも学習した。自分の知らないことを、本を媒介して知ることが、楽しかった。
それがいつしか私にとって私だけの財産となっていった。自信へと繋がっていった。体力では負けても、知識では負けるものか――。高校でも大学でも誰にも負けたくなかった。そして実際、常に首席であり続けた。外交官の採用試験でもそうだった。
だから、皇帝が才覚のある者を重用するというのなら、私が重用されてもおかしいことではないと思っていた。むしろ、そうであるべきだと考えていた。
だが――、本当にそれだけだろうか。私は皇帝にとって都合の良い駒となっていないだろうか――。
「フェルディナント様。まだお休みになられないのですか?」
寝室の灯りが点いていることにミクラス夫人が気付いたのだろう。寝間着に上着を羽織った姿で部屋にやって来た。
「もうそろそろ休むよ」
時刻は午前二時になろうかというところだった。そろそろ休まなければ明日に響く。しかし全くといって良いほど眠気は無かった。
「何をお考えなのですか?」
ミクラス夫人は、穏やかな口調で尋ねてくる。ミクラス夫人には、私が悩んでいることなどお見通しなのだろう。
「……自分の行いが、今の事態を招いたのだと思うと、これまでの選択が全て間違っていたのかもしれないと思えてならない」
「……陛下が何か難題を?」
「どうしてそう思う?」
何故、皇帝に絡むことだと解ったのかと思い問うと、夫人は苦笑して言った。
「フェルディナント様の頭を悩ませるといったら、陛下に関係することとしか思い当たりません。それ以外のことならば、いつもすぐに結論をお出しになっています」
「……言われてみればそうかもしれないな」
「私は政治のことは解りませんが、僭越ながら、ひとつだけ助言させて下さい。フェルディナント様も陛下もそれぞれお考えあってのことでしょう。ですが、この国の長は皇帝陛下。最終的にはフェルディナント様も陛下に従わねばなりません」
「……そうだな」
「そのなかで、フェルディナント様がお出来になることをなさいませ」
「陛下の御命令下で私の出来ることか……。皇帝という絶対的な存在がある以上、そうなるのだろうな」
皇帝の最終決定には絶対に逆らうことが出来ない。考えてみれば、いつも歯痒い思いをするのはこの時だった。大体が此方の案を採用してくれるが、皇帝が一歩も譲らないこともある。思えば、それらの大部分が皇室に関わることではなかったか――。
「今は亡き旦那様も、フェルディナント様のようにお悩みになっていたことが御座いました」
「父上が?」
「今だからお話出来ますが、旦那様は御自身の御命とこのロートリンゲン家をかけて陛下に進言なさろうとしたことがあるのですよ。奥様やフリッツが何とか止めましたが……」
どちらかといえば父は古い性質の人間だった。そんな父の姿しか見ていなかったから、皇帝の意に背くことなど無かったのだと思っていた。
「知らなかった……。父上は陛下に対して常に敬意を忘れてはならないといつも五月蠅かったから……」
「旦那様は間違ったことを間違ったまま見逃すことの出来ない御方でしたから。……そうそう、あの時は奥様がフェルディナント様とハインリヒ様のことを考えて下さいと旦那様に訴えられて、それで何とか思いとどまって頂いたのですよ」
「ロートリンゲン家の存続のため、ではなく?」
家の存続のためにと言われれば、父は諦めるかもしれないと思うが。あの父が子供の名で思いとどまったと?
「いいえ。御子様方のため、進言を諦めたのです。その時のことはよく憶えています。ロートリンゲン家の存続のために陛下に逆らうのは止めるよう、フリッツは何度も言っていました。でも旦那様はこのような帝国での家名ならば要らないと仰って……」
「あの父上がそんなことを?」
「御子様方――フェルディナント様やハインリヒ様の教育に関しては厳しい御方でしたが、お二人のことを何よりも一番に考えてらっしゃいましたよ。お二人には絶対にそういう面を見せない御方でしたけどね」
知らなかった――。
古い思想に囚われた厳しい人だとずっと思っていた。あの父が皇帝に逆らおうとしたことがあるなど、想像すらしていなかった。