新世界
フェイ次官は胸の内ポケットに手を忍ばせた。封筒のようなものを取り出したのかと思ったら、それは昨晩、あの店に置いてきて、その後追いかけてきた彼とやり取りをした小切手だった。
「これはお返しする。今朝店主の許に行ったら、こんな大金は受け取れないと言った。代わりに貴殿の飲んだ分は私が別に支払っておいた」
「余計なことを」
「私の奢りということにさせてくれ。そしてこれは貴殿が本当に必要になった時に使えば良い」
フェイ次官は封筒を俺の手に掴ませた。仕方無くポケットに収めたところへ、ワン大佐が戻ってくる。
「出航の準備が整いました」
「御苦労だった。彼も共に行くことになったから先に伝えておくぞ」
「共に……ということは、亡命ということですか」
「そのうえで、将官級の待遇を与える。ワン大佐も見た通り、彼の技量に疑いは無い。そして帝国で軍務長官を務めていたことを考えれば、適切な待遇だ」
それを聞き終えるとワン大佐は此方に向き直り、敬礼した。此方も敬礼を返すと、彼は船に向かうよう促す。
それにしても、人生とはその時にならないとどう動くものか解らないとは言うが、確かにその通りだった。まさかアジア連邦国家の軍務省に所属することになるとは思わなかった。アジア連邦は帝国と友好条約を締結してはいるが、貿易取引がある程度で、どちらかといえば反目し合っている。海軍力のある国で、保有船籍数は帝国と同等であり、帝国海軍と対等に交戦出来る国ということは常に噂されていた。その国で、俺は新しい生活を始めようとしている。
フェイ・ロンというアジア連邦の軍務次官がどんな人間なのかもよく解らないまま、ただ流されているような気がしないでもない。だが、このひと月の間のような自堕落な生活を送るよりは増しな筈だ。
「……旧領主層であるし、多少の生活のずれはあるだろうことは予想していたが、士官学校で調理のひとつふたつぐらい習っただろう……」
アジア連邦にやって来て、フェイ・ロンの宿舎に案内され三日が経った。フェイはこの三日間、ビザンツ王国での任務報告やら俺の将官申請といった手続き等で忙しく、宿舎に帰ってくることは無かった。
フェイの宿舎は高官にしては質素な宿舎で、寝室が二つにリビング、ダイニング、それに応接室と浴室があるだけだった。亡命申請の許可が下りるまで外出は出来ないので、この三日間、狭いこの部屋のなかに閉じこもっていた。食事も自分で調達しなければならなかった。一応、自分で作ってみようとしたが、何をどうして良いかも解らず、仕方無くこの部屋に配達してもらった。三日ぶりに帰宅したフェイは、ダイニングの水を流した形跡の無いことに気付き、呆れた様子で言った。
「悪いな。私は士官学校でも上級官吏コース所属だったから、食事の管理は下士官の役目とされていたんだ」
「……上級官吏といっても士官の始めは部隊の末端に組み入れられるもの……ああ、そうではないのか。幼年コースから入っているのか」
「ああ。十五の時から士官学校に入っている」
「となると、軍に所属した時から佐官級……大佐だった訳だな」
「その通りだ。よって料理は出来ない」
「……そんなことで堂々と胸を張るな。それとプライベートでは堅苦しく呼ばれるのは好まないので、フェイでもロンでも好きに呼んでくれ」
フェイはネクタイを解きながらそう言った。アジア連邦では軍人であっても毎日軍服を着る必要は無いのだろう。帝国では軍人は軍服着用が義務づけられていたので、不思議な感じがした。
「ではフェイと呼ばせてもらう」
「俺はロイと呼んで良いか? ロートリンゲンは矢鱈長いし、ハインリヒとはこれまた呼び辛い」
ルディとはミドルネームで呼び合っていた。他には亡き母がそう呼んでいた。士官学校に入る前のジュニアスクールで出来た友達はそう呼んでくれた。ロイという名は俺にとって親しい間柄の人間が呼ぶ名だった。
「駄目か?」
「いや……。ロイで構わない」
「安心した。俺は家では寛ぎたい性質でな。ところで、亡命の手続きに少々時間がかかるそうだ。極秘で進めているせいもあるが、帝国の軍務長官の座にあった者ということで上方も戸惑っていてな。話は通るようだから心配は要らないが……。引き続き、此処で待機してもらいたい」
「解った」
「……しかし俺もこうして留守がちなことが多い。家事が一切出来ないとは困ったものだ。今迄一体どういう生活をしていたんだ」
「邸には使用人が居る。専属の料理人も居たから、生活に不便は無かった」
「庶民の俺とはまるで感覚の違う話だな……。流石は帝国の旧領主層というか……」
「そうは言うが、旧領主層にしてはうちは使用人の少ない家だったぞ。庭師や護衛も合わせて十人しか居ないからな」
「……それだけ居れば充分だろう……」
「そうか?」
「……で、話を戻そう。この三日間の食事を全部電話で注文したということは、今日の夕食ももう頼んだのか?」
「いや、まだだ。これから注文しようかと思っていたところだ」
「解った。それなら良い」
「……どういうことだ?」
「食事は俺がこれから作る。亡命の許可が下りるまでは外食も許されないからな」
フェイは一旦自分の部屋に行き、五分と経たぬ間に戻って来た。そその時にはもう着替えを済ませ、シャツにジーンズという軽装となっていた。それからダイニングへと向かう。冷蔵庫から野菜や肉を取り出して、それを手際よく洗って切り始めた。
「何か手伝おうか?」
「そうだな。二人で支度した方が早いだろう。其処の戸棚の一番下に米が入っている。洗ってくれるか?」
戸棚の下を開くと、大きな壺があった。そのなかに米が入っていた。フェイが分量を教えてくれ、その通りに米を量ってからシンクに向かう。当然、こういうものは綺麗に洗った方が良いに決まっているから、洗剤を使った方が良いだろう。
「ロイ! 何を入れるつもりだ!?」
手許にあった洗剤を手に取ると、フェイは慌てた様子で俺から洗剤を奪った。
「食品を洗剤で洗っては駄目だ! 米は水で洗えば良いんだ!」
「それだけで良いのか?」
フェイは大きく頷いた。それを聞いて、水道の蛇口を捻り、米を入れたボウルのなかに注ぎ入れる。そうして浮いてきた米を何粒か掬い丁寧に洗っていると、フェイは呆れた顔で俺を見た。
「何だ? 違うのか?」
「……ロイ。今日は其処にでも座って見ていてくれ……。全部、俺がやるから……」
「しかし一人では大変だろう」
「俺はいつもやっているから大丈夫だ。今日は食材の扱い方とか、コンロの使い方を見て憶えてくれ」
フェイの側でその様子を観察していると、手際の良いことに驚いた。米をさっと洗い、それを水に浸けたまま、今度は野菜と肉を切り刻む。鍋に野菜と水を入れてコンロに火を入れる。その合間に冷蔵庫から何か取り出す。ひとつひとつ無駄の無い動きだった。
「凄いな」
「俺は一人暮らしが長い。大学に入ってからはずっと一人暮らしだったからな」
「大学……? フェイは士官学校を卒業したのではないのか?」