新世界
躊躇無く前に進む。男が体勢を低くして構える。その男の鳩尾めがけて拳を繰り出す。男はそれを簡単に受け止めた。
この男は軍の関係者なのだろうか。予想していた以上に強い。
拳を放し、身を引くと同時に蹴りを繰り出す。男はそれを避け、代わりに拳を繰り出した。その拳を受け止める。ずん、と重い拳だった。
強い――。
相手の拳を突き飛ばすようにして後方に一旦退くと、背後から拳銃の引き金を引く微かな音が聞こえた。すぐにその場から飛び跳ねる。パン、パンと二度の発砲があったが、そのどれも俺には当たらなかった。背後から警官達がじりじりと躙り寄る。
眼の前の男と合わせて合計二十人だった。眼の前の男が予想以上に手強い。だが、背後の者達は大した技量も無さそうだ。ならば後ろに突破口を作り、一旦この場を放れるか。船は出航してしまうかもしれないが、この際、仕方が無い。次の機会を待つしかない。此処で捕まる訳にはいかない。
眼前の男が拳を繰り出そうとしたその時、背後から一人の男が俺に掴みかかろうとした。その男を足で薙ぎ払い、さらに襲いかかろうとしてきた別の男に拳を喰らわせる。横から伸びてくる腕を、身を逸らして交わす。鳩尾に拳を叩き込む。大きく足を振って同時に二人を蹴り上げる。背後に迫る気配を感じて、すぐに振り返ると先程の大柄な男が掴みかかろうとしていた。寸前で身を交わし、拳を繰り出す。左右から銃口が此方に向けられる。先程、鳩尾に一撃を食らわせた男の足下に拳銃が落ちているのが見えた。距離にして五メートルも無い。眼前の男の攻撃を受け止めつつ、あれを拾い上げよう――。そう考えたところへ、男の太い腕が唸りを上げ迫り来る。両手を交差して受け止めるとその衝撃に腕がじんじんと傷みを発した。引きつつ身体を捻り、その胴体に蹴りを食らわせる。男は少し怯んで一歩後ずさった。その隙に拳銃に手を伸ばし、周囲の銃口めがけて発砲した。
合計三発、此方に向いていた三つの銃口を撃ち落とす。
「お前……、民間人ではないな」
大柄な男がたどたどしい公用語で言った。
「其処を退け。私の射撃は正確だから命の保障はせんぞ」
「私は戦場を丸腰で駆け抜けることに関しては、我が国内で右に出る者はいないと言われている。私を撃てるか」
この拳銃に弾がどれだけ入っているのか確認する間もない。一撃で仕留めなければまた此方にとって不利な状況となる。威嚇だけのつもりだったが、相手も相当な力量の持ち主だ。先程の言葉も嘘ではないだろう。此方が怯めば一気に攻められる。
足を狙うか――。
果敢に飛びかかってくる男に身を低くして交わしつつ、銃口を足下に向ける。
「双方、引け!」
引き金を引こうとしたまさにその時、鋭い声が男の気を逸らした。そして咄嗟に俺も引き金から手を放した。すぐに男と間合いを取り、声の聞こえた方を見遣った。
昨夜のあの男――フェイ・ロンと名乗ったアジア連邦の次官が警官の前に立っていた。
「彼は私が頼んだ任務の遂行中だったのだ。警戒を解いてくれ」
フェイ・ロンは周囲の警官達にそう言って、拳銃を収めさせた。そして此方に歩み寄る。
「ワン大佐。事情は後で話す。私に合わせてくれ」
フェイ・ロンは眼前の大柄な男に対して、連邦語で囁いた。それから此方を見て、流暢な公用語――つまり帝国語で囁く。
「捕まりたくなければ、私の言う通りに。銃口を下ろせ」
「何故、私を助ける?」
フェイ・ロンはふと笑んで、此方に背を向ける。警官達のなかの一人の男――おそらく一番階級が上なのだろう――に向かって、軽く頭を下げた。
「部下がご迷惑をおかけした。私が指定した時間に遅れると思って焦っていたようだ」
「や、此方こそ部下が早合点をしたようで申し訳無い」
警官は慇懃に応じて、周囲を解散させた。そして自身もこの場から立ち去っていく。
「次官。何故にこの不法侵入者をお庇いに?」
彼等が完全に引き下がると、ワン大佐という男が、俺をちらと見遣りながらフェイ次官に尋ねる。フェイ次官は少し肩を持ち上げて笑って言った。
「この方は新ローマ帝国の軍務省海軍部長官ロートリンゲン大将だ。何らかの事情で身分を明かせないとしても、不法滞在ではあるまい」
「帝国の長官……!?」
ワン大佐は驚きを露わにして、此方をまじまじと見遣る。汽笛の大きな音が聞こえた。その方向を見ると、北アメリカ合衆国行きの船が出航してしたところだった。
「隠密捜査としては随分派手な立ち回りだとお見受けしたが?」
「昨晩も言った筈だ。私はもう帝国軍に所属していない」
「ならば何故この国に?」
「来たくて来た訳ではない」
「……念のために問うが、パスポートは?」
「先刻の警官が追いかけてきた通りのことだ。私はパスポートも持っていない」
「まさか帝国は貴殿を国外追放したのか……?」
この男、流石に察しが良い。帝国に次ぐ大国であるアジア連邦で次官を務めるだけある。フェイ・ロンという名を聞いたことは無いが、アジア連邦で重責に就くにしては随分年若い男だった。俺と同じぐらいか、それとも少し年上だろうか。
フェイ次官は少し考える素振りを見せてから、ワン大佐に向かって帰国の準備を進めるよう言った。ワン大佐は敬礼してこの場を立ち去っていく。
「貴殿の身柄、この私が預かることにする」
「国外追放された私を匿えば、皇帝の不興を買うのは必至だ。何故其処まで私に関わろうとする?」
「興味があるからだ。貴殿のことは前々から関心を寄せていた。若くして長官にのぼりつめたロートリンゲン家の次男。旧領主層ゆえにそれが可能だったともいうが、一説では際立った技量が認められたからだとも言う。先程の体技で、どちらの噂が真実だったか解った。我が国で一、二を争うワン大佐と互角に張り合うとはな」
「成程。道理で手強い筈だ」
「ロートリンゲン卿。私の配下になるつもりはないか?」
「配下? 軍に入れと?」
「ああ。年下の私が上官で不服かもしれんが」
「……年齢の上下は関係無いが、貴殿は私より年下なのか?」
「五つ下だ。今年次官になったばかりで、去年までは次官補だった。武官といっても私は殆ど文官のようなものでな。実戦に出た経験も無い」
この男が俺より五つも下だという事実にも驚いたが、実戦経験もなく次官となるなど、帝国ならばあり得ないことだった。机上の試験だけで昇進出来るのは文官だけで、武官には戦場もしくは警備での実績が必要となる。
「私は戦略を専門とする。ワン大佐は私の直属の一人だ。貴殿が我が軍に入ってくれるなら、将官としての地位を約束しよう。無論、我が国での永住権も」
それは決して悪い話ではなかった。国外追放された者にとって、充分すぎるほどの条件だろう。
もうすぐ帝国を出てひと月が経つ。確かにこのままふらふらと生きていても仕方が無い。何処かに腰を落ち着けて新しい生活を始めなければならない。亡命先が北アメリカ合衆国でなくともアジア連邦でも、俺にとってはあまり違いは無い。
「……良いだろう」
「戻ったらすぐに亡命と将官待遇での申請を行うが、少し時間がかかる。身分が保障されるまでの間、私の宿舎に身を置くと良い。ああ、それから……」