新世界
逃亡したその日の夜、初めてマリと肌を合わせた。新トルコ王国に到着したら、二人だけの結婚式を挙げよう――俺達はそう約束していた。そして俺はそれまではマリを抱くまいと決めていた。それが、マリは浴室から出て来るなり俺を抱き締めて言った。抱いてほしい――と。考えてみれば、マリは逃げ切れないとはじめから解っていたのかもしれない。
暖かい肌の温もり、誰にも触れられたことのない白皙の滑らかな肌、熱っぽい吐息――それら全てを鮮明に思い返す。睦み合い、そして抱き合って休んだ。互いを求め合った後の熱がゆっくりと落ち着いていく。マリは俺の胸に顔を寄せながら聞いてきた。
『フェルディナントのこと、恨んでいるの?』
頷き返すとマリは恨んでは駄目よと、微笑みながら言った。
『皇帝命令となれば仕方の無いこと……。フェルディナントも随分悩んでのことでしょう』
『あいつは権力を得たいだけだ』
『私と結婚する人は誰だってそうなるでしょう。フェルディナントが私との結婚を拒んだとしても、貴方が相手に指名されることは無いわ。私は姉のように政務に関心は無かったから、旧領主層の文官の誰かとの結婚を命じられていたでしょう』
『それでも俺はあいつを許すことは出来ない。俺達のことを知っていながら、皇帝の言いなりになるあいつが……!』
『貴方が怒っているのは、やっぱりそのことなのね。フェルディナントが皇帝に逆らわないことに対して怒ってる』
『……そういう訳じゃないさ。あいつがマリを俺から奪おうとしたから……』
マリは首を横に振って、貴方の怒りは違う、ともう一度言った。
『私は生まれた時から、父皇帝に逆らってはならないと教育されてきた……。皇帝は絶対だと。そのことに対して疑問を持ったことも無かった』
『俺の方がおかしいと?』
マリは少し考えてから笑った。何だ、と問うとマリは胸のなかで顔を上げて応えた。
『粛々と皇帝に従うのは却って貴方らしくないわね』
『これまでは粛々と従ってきたつもりだが?』
『私のために全てを捨ててこうして逃げてくれた。ありがとう』
マリはゆっくりと顔を近付け、俺の唇に口付けた。暗闇のなかでマリは嬉しそうに笑み、それからまた身を寄せた。
『でもロイ、フェルディナントを恨まないで。許してあげて。父は憎まれて当然のことをしているけど、フェルディナントに罪は無いわ。それに恨み続けると、貴方自身が苦しくなる筈よ』
マリは心優しい女性だった。一緒に逃げようと持ちかけたのは俺の方なのに、マリは自分から連れ出してくれるように俺に頼んだのだと、皇帝に申し出たのだと言う。それは違うと取り調べの時に反論したが、ヴァロワ卿が俺の意見をねじ曲げた。この男は皇女マリを庇っているだけだ――と。おそらくそれは、俺を生かすためだろう。
捕らわれて宮殿に到着したのが、彼女を見た最後だった。マリは俺を見て涙を浮かべながら微笑み、ありがとう、と告げた。それから俺は収監された。
マリはルディに罪は無いと言う。
俺は断ってほしかった。たとえそのことが結果的に、俺とマリの結婚に結びつかないことになったとしても、ルディには断ってほしかった。
皇女マリと宰相が婚約するらしい――その噂を初めて宮殿で聞いた時、噂が間違って伝わっているのではないかと思った。ところが、軍務省に行けばヴァロワ卿が皇女と宰相の婚約は本当かと問いかけてくる。何がどうなったのか、俺にはまるで解らなかった。しかも、ルディからは何の話も無かった。堪りかねて宰相室に行くと、ルディは困った様子で俺を見た。その瞬間、噂は本当なのだと解った。
しかしあの時、ルディは言ったのだ。俺のために尽力する、と。
ところがルディは俺を裏切った。皇帝の命令には逆らえないと言って、マリとの結婚を受諾した。
――俺には解っていた。ルディはその話を受諾するだろうことを。
ルディには野心がある。一見すると穏やかな表情に隠れて解らないが、帝国を自分の手で変えたいという強い野心がある。マリが女帝となれば、その夫は女帝に継ぐ権力を有することになる。マリが政務に関心を寄せなければ、実質的には夫が皇帝の権力を恣に出来る。だからこそ、ルディはマリとの婚約を受諾するだろうと思った。俺が如何に釘を刺しても無駄かもしれない――当初から俺はそう思っていた。
ルディにとって、マリは一人の女性でなく、権力の道具に過ぎない。それが口惜しくて、腹立たしくて、憎かった。そんな権力をほしがるルディ自身にも嫌気が差した。
俺は二度とルディと会うことは無いだろう。もう二度と会いたくない。
朝になり、宿屋から出てあてもなく歩いた。海が見えた。ビザンツ王国は北部が海に面している地域がある。寒空の下、紺色の海が広がっていた。
海を見るのは久しぶりだった。港も近くにあるようで、船が何隻も停泊していた。このまま別の国に移るのも良いかもしれないと思った。ちょうど北アメリカ合衆国行きの船が停泊している。
もう君主制の国には懲りた。皇族や王族に振り回される生活はもう御免だ。北アメリカ合衆国で職を見つけ、新たな生活を送るのも良いだろう――そう考えると、自ずと足が港に向かった。
「待ちなさい」
昨日といい今日といい、よく呼び止められる。振り返らずに立ち止まると、二人の警官が前に立ちはだかった。
「パスポートを提示して下さい」
そんなものを持っている筈が無かった。追放に処せられたのだから。さてどう逃げようか。
「君、パスポートを。言葉が解らないのか?」
言葉が解らない振りをするという手もあるか――。だがそうしてもすぐに気付かれてしまうだろう。身体検査をされれば、パスポートも何も持っていないことは隠しようが無い。
もしこれで逮捕されれば、帝国に強制送還される。そして追放の刑を受けた者が許可の無いままに帰国すれば、即刻処刑となる。
「パスポートを早く出しなさい!持っていないのか?」
よし、決めた――。
誰があんな皇帝のために死んでやるものか。地獄の底まで生きてやる。
警官が腕を掴もうとする。それを薙ぎ払い、後方に飛び退る。港まで走り抜け、あの北アメリカ合衆国行きの船に乗り込もう。あの国ならば帝国からの亡命者を受け入れてくれる。
「ま、待ちなさい!」
警官があたふたと追ってくる。無線で応援要請をしたようだった。雑踏のなかを駆け抜けていく。追いかけてくる警官の数が増えてくる。小道に身を隠したくとも、あの船がいつ出立してしまうか解らない。今を逃すと、警備が一層厳しくなるだろう。何としても今、乗り込まなければ。
「止まれ!」
一人の男が眼の前に立ちはだかる。黒く短い髪をした体格の良い男だった。此処の警備員にしては人種が違う。風貌からすると、どちらかといえばアジア連邦の人間のように見える。しかし、後から追ってくる警官達が彼に俺を捕まえるよう要請しているということは、この国の人間なのだろう。
この男を倒せば良い。だが――。
この男には自信が漲っている。相当な力量の持ち主なのかもしれない。
背後から警官達が群れを為して追いかけてくる。後退したところでこの眼前の男は追いかけてくる。ならば、前方を突破するに限る。