新世界
「ああ……。俺では役者不足だろうが、俺はマリの側に居たい。マリが帝位に就くというのなら、俺は彼女を支える」
「……解った。ではこの家は私が守る。お前は何があろうとマリ様をお守りしろ。そしてひとつだけ頼みがある。まだ遠い先のことだろうが……」
「何だ?」
「絶大な権力を有しても、部下の話には耳を傾けてくれ。もしマリ様がそれを聞き届けないようなら、お前が諫めろ。そうしなくては、帝国は滅びてしまう」
「……侍医の件ならば俺も聞いた。陛下も残酷なことをなさるものだ。……お前の言うことは俺も正しいと思う。それにもし俺が間違った道を歩いたら、お前は必ず俺を正してくれるだろう」
「私にそれが可能ならば」
「ルディに逆らうと後が怖いからな。俺はルディに逆らったことは無いと思うが?」
「お前がマリ様と結婚すれば、立場は逆になる。私より強い権限を持つことになる」
「それでもルディは俺の兄。それは不変の事実だ」
そうだ。ロイとはこういう男だった。ロイならば道を外すこともあるまい。この帝国の後先を任せても大丈夫だ――。
私は己のことばかり考えてしまっていた。帝国のことを思うならば、皇女マリとロイの結婚は決して悪いことではないだろう。二人とも旧習に囚われない自由な発想の持ち主だ。
「……ベッカーの一件で、私は悩んでしまった。このままこの国は帝政を続けて良いのか、とな」
「誰もが戦々恐々としたさ。陛下の御不興を買ったら投獄される、とな」
「ベッカーに何の非も無い。彼は医師として出来る限りのことを務めた。私は陛下に思いとどまっていただくよう進言したが聞き入れてもらえなかった。それどころか、これ以上ベッカーを庇うなら私も同罪だと」
「気にするな。陛下も御心痛ゆえに心にも無いことを言ったまでのことだ」
「ロイ。私はいつまでも帝政が続けられるとは思っていない。その証拠に世界は君主制を廃しつつある。もしこの国が帝政を続けようとするなら、いつか内部から崩れていくかもしれない」
「ルディ……」
「お前がこの国の長たろうと思うなら、そのことを少し心に留めておいてほしい」
「気が早い話だぞ、ルディ」
ロイとの蟠りはこれで一段落した。蟠りといっても私が一方的に嫉妬していただけのことだった。一人で空回りしていた。今考えると愚かしいことだった。
宰相室で一通り書類を纏めてから、皇帝の執務室へと向かった。今日、皇女マリに継承権を移すことは伝えてあり、あと少しで約束の時間となる。オスヴァルトに皇帝の許に行って来ることを告げ、宰相室を後にした。
皇帝の執務室には既に、皇妃と皇女マリが控えていた。皇女マリはまだ皇女エリザベートの逝去にショックを受けているのか青ざめた顔で俯いていた。皇帝は書類に署名を施し、次に皇女マリが、最後に皇妃がそれを終える。最後に日付と私の名前を記して、事務的な作業は終わりだった。
「この二ヶ月、不幸続きで私も心の支えを失った。人の命とは儚いものだと思い知らされた」
「陛下。どうか御落胆なされませんよう。国民も此度のことに衝撃が大きく、動揺しております」
「そうだな……。しかし私もいつ死ぬかもしれん。私が死した後、マリが帝位に就くことになれば、帝国初の女帝ということもあって帝国内は動揺するだろう。……其処で私は考えた。この国にはこれからますます強き指導者が必要となる」
皇帝は私を見つめた。強い眼差しで、しかし何か権力者としての鋭さを持った光を放っていた。
「フェルディナント。マリと結婚し、この帝国を盛り立ててほしい」
私が皇女マリと結婚?
ロイではなく私が――。
あまりのことに咄嗟に声が出なかった。
「ハインリヒとの婚約は取り止めだ。これは帝国の今後の繁栄を考えてのことだ。ハインリヒよりもお前のほうが政務に通じている。それに軍人よりも宰相との結婚の方が、民も納得するだろう」
「お待ち……下さい……。マリ様とハインリヒは互いに想い合っている仲。それを……」
「フェルディナント。お前ほどの男が私情と公を弁えていないとは言わせぬぞ。マリは皇女だ。その結婚には私情よりも公的な利益の方が求められる。私情など一時的なこと、マリも納得していることだ」
私の仕えていた皇帝はこんな非常な人物だっただろうか――。
二人の皇女の死が皇帝をこんなにも変えたのか。
「フェルディナント。お前の能力を見込んでのことだ。マリは第三皇女ゆえ、フアナやエリザベートのようには、政務のことを教えてこなかった。よもやエリザベートまで死んでしまうとは思わなかったからな……。フアナかエリザベートが皇位を継ぐのであれば、ハインリヒとの結婚も認めた。しかし政治に不慣れなマリが皇位を継ぐのであれば、それを支える夫は政治に精通した者であってほしい。お前は若くして宰相となり、ロートリンゲンの嫡子でもある。それにハインリヒほどではなくとも、護身術も弁えていると聞く。お前ほど、マリに相応しい相手はいない」
「陛下。私を評価して下さるのは身に余る光栄で御座います。しかし、マリ様と弟のハインリヒは私が考える以上に深く想い合っています。二人の想いを引き裂くことは私には……」
「フェルディナント。私は意見を求めているのではない。これはもう決定事項だ」
心臓が大きく高鳴る。
こうなると私にはもう拒めなくなる。ベッカーの事件がそうであったように。
否、何か拒む方法がある筈だ。穏便に拒む方法が。
そうしなければ、私はロイの想いを踏み躙ることになる。
「婚約発表は春に――三月頃に行う。そのように邸内を整えておけ」
「陛下……」
「その頃にはマリも心の整理がついておろう」
皇帝は皇女マリを見遣る。皇女マリは蒼白な顔のまま私を見、そして視線を落とした。皇妃はただ黙って皇女マリの側に付き添っていた。
ロイに何と言えば良いのか――。
断らなければならない。あのような話を受けてはならない。
無論、拒めば私は命令に背いたとして罰を受けるだろう。このような話が出た後では、ロイも皇女マリと結婚するということは出来なくなる。
どうすれば良い――?
この日は軍務省が多忙だったらしく、ロイは本部に泊まり込むと言って帰宅しなかった。そのことは私を少し安堵させた。ロイと話をしなければならないが、どう言って良いのか解らなかった。そればかりか、私はどうするつもりなのかも決めていない。
二人の関係を知りながらそれを壊すような行動をしては駄目だと思いながら、もし皇帝の話を受ければ、今以上の権力を得られるのだと興奮に似た感情が湧いている。私が権力を得たら、専制政治は行わない。民のために、新トルコ王国のように共和制への道を進める。
私にはそれが出来る。
私にしか出来ない――。
眠ることの出来ない夜を迎えた。自分がどうしたいのか、どうすれば良いのか、どうしなければならないのか良く解っているだけに、答えが出せなかった。そもそもロイには尽力すると約束したのだから――。
朝を迎えていつも通りに宮殿に行くと、辺りがざわめいていた。皆、此方を見て囁き合っている。眼を合わせると丁寧に頭を下げるが、いつもと何か違うような気がする。
「閣下!」