新世界
宰相室に入るなり、オスヴァルトが立ち上がる。朝の挨拶も無いままに呼び掛けてくるのは珍しいことだった。
「お早う。何かあったのか?」
「話を伺いました。閣下とマリ様の縁談が進んでいる――と」
昨日皇帝から承った話なのに、何故こんなに早く伝わっているのか――。
もしかして皆が囁き合っていたのはそのためなのか。まだ縁談の話は皇族しか知らない筈だ。皇帝と皇妃と皇女しか居なかった。それが何故、皆に知れ渡っているのか。
「オスヴァルト。その話は誰から聞いたのだ?」
「内務省の知人からです。今朝、知人と会った折に……」
「その話は私が昨日、陛下とお会いした時に出て来た話だ。私はまだ返事もしていない。それにその場には陛下と皇妃、マリ様以外に誰もいなかった。何故、話が筒抜けになっている……?」
「……知人は秘書官に聞いたのだといっていましたが……。それに閣下、この話は既に皆の耳に入っている筈です。内務省に限らず、外務省の人々も……。先程、外務省の方から電話が来て、その話の真偽を問われましたから」
「馬鹿な。誰かが盗み聞いたとしてもこんなに早く知れ渡る筈が」
もしかして――。
もしかして皇帝自身が意図的に情報を流しているのか。私から選択の余地を奪うために。もしも皇帝の秘書官から話が漏れたとすれば、そうに違いない。
「オスヴァルト、その秘書官が誰か解るか?」
「知人に聞いてみます。……しかしその前にお聞きしたいのです。閣下、縁談のお話をどうお考えなのですか」
オスヴァルトは真面目な顔で尋ねる。私自身、一晩中悩んだ。そしてまだ明確な答えが見つからないままだった。
「まだ……、答えを出していない」
「ならば閣下。このお話をお受け下さい」
「オスヴァルト……?」
「閣下ならば、帝国に今尚蔓延る古い考えを一掃出来ます。閣下はそれだけの御力を備えた方です。このたび陛下が閣下に縁談を申し入れたのは、閣下の能力を見込んでのことだと思います」
「たとえ私がマリ様と結婚したとしても、そう単純に物事は運ぶまい」
「いいえ。閣下が皇帝と同じ権限を持てば、この帝国を変えることも出来ます。専制国家から脱却することも」
「……体制を変えろと言うのか」
「それも可能だと申し上げているのです。専制ではこれから先、帝国の発展は見込めません。周辺国の事情を一番御存知なのは閣下では御座いませんか」
「いつまでも旧弊的な専制を敷くことは出来ないとは私も考える。だが、それと縁談は別だ。もし今すぐに民主化を断行する必要があるなら、私は今でも陛下にそう申し上げる」
「現皇帝に進言なさっても益は無いと思います。もしそのような御方なら、ベッカーが禁固刑に処せられることも無かった筈です」
「オスヴァルト。陛下に対し不敬な発言は控えろ」
オスヴァルトは一度口を噤み私を見たが、また口を開きかけた。その時、扉を叩く音が彼の言葉を阻んだ。
「どうぞ」
オスヴァルトが入室を促すと、扉が大きく開く。
そして扉の前に立っていたのは、ロイだった。
「ロイ……」
「どういうことだ……?」
「……聞いた通りの話だ。だがまだ私は返事をしていない。オスヴァルト、悪いが秘書官の名を調べてくれ」
オスヴァルトは一礼し、ロイにも頭を下げて部屋を去っていく。この部屋に二人だけとなると、ロイは拳を握り締めて言った。
「俺は……、俺とマリのことはどうなった……?」
「白紙撤回された。昨日のことだ」
「そんな……。婚約の日取りも決まっていたではないか……!?」
「……昨日、第一継承権をマリ様に移譲する手続きの後で、陛下が私にマリ様との結婚を持ちかけたのだ。その際、お前との婚約は取り止めると……。先程も言ったようにまだ返事はしていない」
「何故……。何故だ……?何故、お前が……?」
「私は宰相で政務に通じている。マリ様はこれまで継承権から最も遠かった御方。故にその伴侶には政治に通じた人間が良いと陛下が仰せになったのだ」
「そんな……。マリと俺のことは陛下とて認めて下さっていたではないか……!?」
「陛下はマリ様が帝位を継承なさらないことを仮定なさったうえで、婚約を認めたようだ。それがフアナ様、エリザベート様とお亡くなりになり、事情が変わって……」
「そのようなこと俺には関係ないことだ!」
「ロイ。お前とて公的な事情があることは解っている筈だ」
「公的な事情……? それを理由に、お前は俺からマリを奪うのか?」
「違う。そういう意味ではない。私は……」
「尽力してくれると言ったのはお前だぞ!? 俺は絶対に認めない」
「私とてお前のことを考えて、陛下に申し上げた! マリ様と弟が想い合っていることを思えば、承諾できないとな。しかし次に出て来たのは決定事項という言葉だ! そして昨日の今日でこの話が皆に知れ渡っている!」
つい声を荒げた。ロイも苛立っていただろうが、私自身も苛立っていた。自分の意志で何もかも決められないことに、怒りを覚えていた。
「だから……、受諾するのか。その話を」
ロイの言葉に返答出来なかった。
ロイは私に背を向け、扉に向けて歩き出した。
「ロイ……?」
「俺はお前のことを信じていた」
「ロイ……」
「俺は俺の思うようにやらせてもらう。こんな間違ったことが通ってなるものか」
「何をするつもりだ……?」
「もうお前のことなど当てにしない。せいぜい皇帝の言いなりになっているが良いさ」
「待て、ロイ。……ロイ!」
ロイはそれ以上、何も言わずに部屋を出た。バタンと大きな音を立てて扉が閉まる。後に残った静寂が、胸の中に靄が広がるような躊躇を引き起こした。ロイは私が結婚の話を受けると思っている。私は本当にそれで良いのだろうか。ロイの言う通り、これは道義的には間違ったことだ。
皇帝の命令に背けば、きっと私は宰相の職を更迭される。
しかしその方が良いのか。今の皇帝は最早嘗ての名君と呼ばれた皇帝ではない。皇女を溺愛するあまり、暴挙を揮っている。ベッカーの件も序幕に過ぎない。皇女に関することはこれからも鬼門となるだろう。そんな皇帝の許で、これまでのように私は働くことは出来ないかもしれない。
宰相を辞することを覚悟で、この話を断るか――。
しかし――、私にはやりたいことがある。新トルコ王国のように体制を変革させることは出来ないかもしれないが、せめて民主化への道を開きたいと考えている。そのために、地道な努力を重ねてきた。民主化運動も影ながら支えてきた。運動家達の自由に動くことの出来る環境を整えた。
それでも、時に思う。
私の出来ることは何と些細なことかと。皇帝の機嫌を窺いながら私の出来ることなど、本当に些細な、取るに足りないことだった。それを思い知らされるたび歯痒かった。
権力が欲しいと思った。
それが今ならば、手に入れられる。
皇帝に次ぐ権力を得れば、私がこの手で、この帝国を変えることが出来る。新トルコ王国のように体制を変革させることも夢ではない。
縁談を引き受ければ、それは実現出来る。
だがそのために、私はロイを裏切って良いのだろうか――。
どちらも解決出来るような答えは、いくら考えても出て来なかった。