新世界
皇帝の部屋を後にすると、ベッカーは仕方が無いのですと小さな声で言った。
「覚悟はしていました。それにエリザベート様をお救い出来なかったのは事実です」
「しかし……」
「これ以上、私を庇えば閣下に御迷惑がかかります。どうぞこのまま私を刑務部に連行して下さい」
何故、こんな生真面目な人物に罪を着せなければならないのだろう――。
彼には何の非も無い。皇帝にそうと告げても、皇帝は耳を貸さない。誰が聞いても私が正しいと言うだろう。だが、皇帝が頑としてそれを認めない以上、誰も私の言葉に耳を貸さないだろう。
「……済まない……。貴方に責任は無いのに私が非力だったために……」
「私が陛下の御不興を買ったので仕方がありません。陛下に逆らってこの帝国では生きていけませんから……。むしろ処刑を命じられなかっただけ良いのです」
力の限界を感じた。宰相であっても、官職として最高の地位を得ても、皇帝の前では赤子に過ぎない。何の力も無い。
ああ、だから――。
だから、レオンは言っていたのだ。君主制――とくに専制国家は民を苦しめるものだと。私は否定した。良き君主に巡り会えれば、民は苦しむ必要もない。良き君主は己よりも民を大事にするものだ――と。それに対してレオンは言った。ではもし良き君主と巡り会えなかったら? その時、国はどうなるのか、と。私は答えた。部下が諫めなくてはならない、と。
『では部下が諫めたとする。そのとき皇帝が聞く耳を持たなければ?』
私はそのような事態は無いものと仮定しながら、それが起こることを常に危惧していた。この帝国において皇帝の発言を抑えるものは何も無い。それが専制国家と言われる所以だった。私はそうと知りつつ、これまで具体的な対策を講じてこなかった。皇帝が私の話を聞いてくれないことなどなかったから、そのような事態は起こらないと考えていた。
私が甘かった――。
ベッカーは裁判を受けることもなく、禁固刑に処せられることになった。せめて刑期を短く出来ないかと考えた末、司法省の長官であるハイゼンベルク卿に詳細を話してみた。ハイゼンベルク卿は守旧派ではあり、普段はあまり話もしないのだが、自身の損得で動く人ではない。ベッカーには罪の無いことだと、ハイゼンベルク卿も頷き、彼の刑を減ずる措置を講じてくれることになった。
「一年ないしは二年ということで宜しいか。流石に半年では陛下のお目についてしまう」
「ありがとうございます。それを聞いて少し安堵致しました」
「フアナ様にエリザベート様……。陛下がお怒りになるのも仕方あるまい。彼に咎は無くとも、侍医である以上、責任は負っているものだ」
「解任は致し方無いことと思います。しかし禁固刑に処すとは予想もしておりませんでした」
ハイゼンベルク卿は、貴卿はまだ若い、と苦笑して言った。
「宰相に向かって失礼な言い方ではあるが……。陛下が皇女を溺愛なさっていたことは卿も御存知だったろう。私の周りでは皇女に万一の事態が生じたときのことを案じない声は無かった。事実その通りになったということだ」
私の周りと彼が言ったのは、守旧派の者達がということだろう。私は皇帝がここまで見境を無くすとは考えていなかった。
それはハイゼンベルク卿の言う通り、私が甘かったということか。
「大変な事態で御座いましたね」
何とか無事に国葬を終えたこの日、漸く邸に戻ってきた。国葬が終わるまでの間、私は殆ど邸に戻らなかった。それはロイも同じで、ロイはまだ宮殿の護衛強化のために邸に戻っていなかった。
ミクラス夫人は労いの言葉を告げながら、少し休むよう促した。私は心身共に疲れていた。ベッカーの件を除けば、皇帝が無謀な命令を下すことは無かったが、色々なことに気疲れしてしまっていた。考えなくてはならないことは山のようにある。今回のような皇帝の横暴な命令を阻止するために、皇帝の命令権を抑えることの出来る機関、もしくは法令を作る必要がある。しかしそのためには皇帝の許可が必要となる。今の皇帝はそれを許可してくれるだろうか。
そしてもう一点、ロイのことが頭から放れない。ロイが皇女マリと結婚し、皇女マリが帝位を継いだ暁には、ロイは大きな権限を持つこととなる。無論、私よりも強い。この帝国において二番目の――そして実質一番目の――権力を持つ。
私がこんなことを気に掛けているのはきっと気に入らないからだと思う。
ロイが私より強い権限を持つことに。いつもロイは何をしなくとも、私の望むものを手に入れてきた。私は宰相となった時、漸くロイよりも上の立場になれたと内心で喜んだ。私はいつもロイに嫉妬していた。私はロイのような体力も無い。だから父はロイに期待した。ロイはいつも易々と父の期待に応えてみせた。軍に入り、将官となって軍人としては最高職の長官にまでのぼりつめた。
私は、本当はロイのようになりたかった。しかしそれは無理で、だからこそロイより上の立場になってみたいと強く思うようになった。そしてそれは同時に父を見返すことでもあった。私が宰相となったのは、そうした私的な気持からだった。
だから気に入らないのだろう。私は――。
ロイが私以上の権力を有することになるということに。
「フェルディナント様?」
「済まない。少し一人にしてもらえるか?」
先程から問い掛けてくるミクラス夫人の言葉を何も聞いていなかった。ミクラス夫人は頭を下げて、部屋を去っていく。
国葬の式典でロイと顔を合わせたが、話もしなかった。勿論、そうした雰囲気でなかったからだが、ロイと話をしたい気分でもなかった。ロイも私の態度に疑問を抱いていることだろう。
皇帝は皇女の逝去のことしか考えられない状態だった。皇女マリとロイのことについて、この一週間、話題に上ったこともなかった。
しかし国葬も終えたのだから、明日からは通常の執務が待ち受けている。暫くは余計なことは考えず、執務に専念しなければならない。まずは皇女マリを第一皇位継承者と書き換えなければならない。明日にでもそれを行わなくては――。
この日、食事を終えて書斎で考えているところへ、ロイが帰ってきた。ミクラス夫人が出迎えて、ロイはただいまといつもと変わらぬ様子で応えていた。その足音が階段を上り、此方に向かっているのが解った。
書斎の扉が開く。ロイはただいまと告げた。
「御苦労様。毎日が忙しかったな」
「明日からは漸く日常に戻れそうだ。ルディもずっと宰相室に詰めていたのだろう?」
「ああ。私も今日やっと家に帰ってきたのだ。宰相室に書類は山積みだが、少し休みたいと思ってな」
「軍務省も同じだ」
ロイはふと笑む。いつものロイだった。
ずきりと胸が痛む。ロイは権力を欲している訳ではない。ただ私の望むものを、それと知らずに手に入れるだけだ。
私がただ一人、ロイを妬んでいる――。
そんな気持を持っては駄目だ。
「明日、マリ様を第一皇位継承者とする文書を作成する。これにより、現皇帝亡き後はマリ様が帝位に就かれる。ロイ、お前は皇帝となったマリ様を支える、それに次ぐ、否、実質的にこの帝国を担う権力を有することになる。その覚悟は出来ているか?」