新世界
実は、とヘルダーリン卿はさらに声を潜め、耳許で、行方が知れず、連絡も取れないのです――と言った。
「え……? ヴァロワ卿が……?」
ヴァロワ卿は律儀な人間だから、出掛ける時は必ず居場所を明らかにする。おまけにこの事態だから、何かあれば必ず連絡を寄越す筈だ。つまり、連絡出来ない状況が生じたということか――。
「今日の早朝、カサル大佐の許に皇帝の所在が掴めた、とメールが入ったそうです。カサル大佐がそれに気付いたのが起床してからのことで、ヴァロワ卿にすぐ返信をした後で、私の許にも連絡をいれてくれたのですが、ヴァロワ卿から音信が無く……。ロートリンゲン大将なら何か御存知かと思ったのですが……」
「いいえ……。私は何も聞いていません。皇帝の所在を見つけたというメールのなかに、その場所については何も書かれていなかったのですか?」
「ええ。後で連絡をいれるとは書いてあったようですが……。ロートリンゲン大将、ヴァロワ卿はおそらく単独で動いています。そのことが気にかかりまして……」
ヴァロワ卿はどうやって皇帝の所在を掴んだのだろうか。単独で行動することの危険性を弁えているのに、何故俺にさえ連絡を寄越さないのだろう――。
「私からも連絡を取ってみます。連絡が取れたら其方に知らせますから……」
「お願いします。……それから、連邦と共和国にこのことを報告した方が良いのでしょうか」
「……ヴァロワ卿は長官の立場にあります。フェイ次官には私から伝えますので、アンドリオティス長官にはヘルダーリン卿から伝えておいてもらえますか?」
「解りました」
ヘルダーリン卿と別れ、すぐにヴァロワ卿の携帯電話に連絡をいれてみた。プルルルと回線は繋がっている。留守番電話にも繋がらない。電源が入っていて、且つ電波の繋がる場所に居るのだろう。もしこの携帯電話がヴァロワ卿と共に在るのなら。
何かあったのだろうか――。
皇帝の所在が掴めたという内容のメールが、早朝に送信された。ヴァロワ卿はどうやってそれを知ったのだろう。
それに、今は皇帝を追っている最中なのか。それとも、皇帝を追跡中に襲撃されたのか――。
「何かあったのか? ロイ」
部屋に戻るなり、フェイが問い掛けてきた。早朝の五時にカサル大佐の許にメールが入ったと言っていた。今は午前十一時だから、もう六時間以上も行方が掴めないことになる。あの律儀なヴァロワ卿が連絡を絶やす筈が無い。
やはり何かあったと考えるべきだ――。
「ヴァロワ卿の行方が掴めない。今朝の五時に皇帝の居場所を突き止めたという報せがあって以来、連絡が途絶えているらしい」
「ヴァロワ大将が……!?」
一大事ではないか――と、フェイは立ち上がる。ワン大佐もペンを置いて此方を見遣った。
「ヴァロワ卿は連絡を絶やす人物ではない。……だから、何かあったのかもしれない」
「そうだな……。至急、アンドリオティス長官と協議して捜索隊を」
「待ってくれ、フェイ。あのヴァロワ卿がそう容易くやられる筈が無い。もしかしたら皇帝を見失ってはならないと、一人でひっそり後をつけているのかもしれないとも思う。捜索をするにしても極秘で頼む」
フェイは頷いて、すぐにアンドリオティス長官の許に連絡を入れる。
ヴァロワ卿――。
何故、早朝に皇帝の居場所を突き止めることが出来たのか。何故――。
胸の内の携帯電話が鳴る。アンドリオティス長官との連絡を終えたばかりのフェイが、此方に注目する。
ヴァロワ卿からだろうか――。
胸元から取り出して画面を見ると、フリッツからだった。
「どうした?」
「ハインリヒ様! お早くお戻り下さい……! フェルディナント様が――」
ルディが意識不明の状態に陥った――。
「な……」
何故――?
昨日も今朝もルディの具合は良かった。朝は俺を見送ってくれた。
『行っておいで』
具合が悪そうな様子はなかったではないか。それが何故――。
「すぐ……戻る……」
「ロイ、ヴァロワ卿からか? 何かあったのか?」
早く屋敷に戻らなければ――。
気ばかりが焦る。意識不明――この言葉が、動作を緩慢にさせているようだった。
「屋敷に戻る。兄が意識不明の状態に……陥った……」
宮殿から屋敷までは車で十分とかからない。ケスラーが玄関の前に車を横付けしてくれた。すぐさま車から降り、玄関の扉を開ける。ルディの部屋から出て来たフリッツが駆け寄って来る。
「ハインリヒ様……! お早く……!」
ルディが昏睡状態にある――と、フリッツが言った。トーレス医師に促されて、俺に連絡をいれたのだという。
トーレス医師が俺を呼ぶように言った――? それは最悪の事態を想定しているということなのか。
まさか、そんな筈は――。
昨日のルディはあれ程――。
階段を駆け上がろうにも、足が上手く動かない。縺れるようで、早く走れない――。
ルディ――。
フリッツがルディの部屋の扉を大きく開いた。部屋に入って見えたのは、ミクラス夫人とパトリック、それにトーレス医師と看護師の姿だった。彼等がルディのベッドを取り囲んでいた。
ルディの側に歩み寄る。
ルディは人工呼吸器を装着されていた。その傍らでトーレス医師が、ルディの心臓から伸びている細い管に薬を投与する。注射器の中身が全てルディの身体の中に入ると、トーレス医師は心電図を凝と見つめた。それから俺の方に視線を向ける。
深刻な表情をしていた。近くに居たミクラス夫人はただ――泣いていた。
「呼吸が停止し、脈拍の低下も止まりません」
「……どういう……ことだ……?」
「フェルディナント様のお身体は限界に達しています。数時間のうちに心肺停止状態となります」
心肺停止――?
嘘だ――。
今朝は元気に見送ってくれたではないか。何も変わりなかったではないか――。
「そんな……筈は無い……。今朝は何とも……」
「急に昏睡状態に陥ったようです。今、二度目の強心剤を投与しましたが……」
ルディ――?
何故――。
何故だ――?
「……手術を早めることは……、今日これから移植をすることは出来ないのか……!?」
「心臓も肺もまだ形成が終わっていません」
「何とかならないのか……!?」
「……申し訳ありません」
手術まであと四日に迫っていた。たった四日。四日なのに――。
「ルディ……、ルディ、起きろ」
ルディの腕を掴み、身体を揺さぶる。眼を開けさせようとした。
手術を頑張ると言っていたではないか。快復を約束したではないか。
「ルディ、ルディ!」
何度も何度も呼び掛けた。
頬を叩き、意識を回復させようとした。ルディのことだ。ふと眼を覚ますかもしれない。今この瞬間にも、呼吸と脈が復活するかもしれない。
「ルディ!快復すると言ったじゃないか……!」
ルディはぴくりとも瞼を動かさなかった。呼吸も停止しているということが信じられないほど、ルディはただ眠っているかのように見えた。
ピッピッピッと間隔を開けながら鳴る心電図の音が、徐々にその間隔を広げていく。トーレス医師が再び薬を投与する。暫くするとまた間隔を狭めて、その音が鳴り響く。
必ず目覚める――。