新世界
「だが果たして彼は急に様変わりしてしまったのか。俺はそうは思わないんだ。むしろ今、彼の本性が現れたのではないかと思っている」
「フェイ……」
「名君と呼ばれる為政者は専制君主となりやすい。……いや、逆かな。専制的だからこそ名君足り得るのか。……言っておくが、皇帝を過小評価している訳ではないぞ。だが過大評価もしない。皇帝は適材適所に人員を配置することが出来た――つまり、他人の能力をきちんと評価していることは事実だ。だが、それは彼にとって自分の融通の利く人間でなければならなかった」
フェイはことりとカップを置いた。
「帝国はもっと早く改革を行うべきだった。このように他国からの干渉を受けて変化するよりはな」
「……変えたくとも変えられなかった。いつも最後の最後で阻まれた。……議会の発言力を高め、皇帝の権限を抑えようと試みたことがあった。……兄は懸命に皇帝を説得しようとした。だが、越権行為だと皇帝は頑として認めなかった。……旧領主層の特権を全て返上し、経済体制の改革を行おうにも旧領主層が強固に反対し、皇帝に訴える。……兄はいつも彼等と戦っていた」
「ならば何故、皇帝は宰相を後継者に指名したのだろう。宰相の提案する政策は皇帝の意志とは真逆なことがあるのに、何故皇帝は宰相を重用するのかと、俺はいつもそのことが解せなかった」
「……ルディは国民からの支持が高い。皇帝はそれを利用したに過ぎない」
「だが宰相が皇帝となったら、宰相の思い通りになるだろう」
「皇帝は先のことなど考えていない。ただ自分の治世に自分がどれだけ評価を受けるか――それだけだ」
「そこまで解っているのなら、何故帝都に戻らない?」
フェイは俺に向き直って言った。
何が悪いのか、何故こうなったのか、常に考えていた。
最終的にはルディのせいにした。ルディが承諾さえしなければ、こんな事態にはならなかったのだ――と。
そう考える一方で、俺自身も解っていた。皇帝命令が発動したら、ルディにももうどうしようも出来ないのだと。
皇帝が悪いのか、帝国の体制が悪いのか。
否、悪いという単純な一言で済ませられる話ではない。ヴァロワ卿が言っていたように根の深い問題だった。
帝国の根幹に関わることで、上層部に居た俺にも関係のあることだ。
ではどうすれば良かったのか。その答えはまだ見いだしていない。マリのことを諦めれば良かったのか。大人しくルディに譲れば良かったのか。確かにそうすればマリは俺を追いかけて、命を失うことは無かった。
だが、やはりそれは奇妙なことだ。ルディがマリのことを愛していたというのなら、まだ諦めもつく。そうではなく、ただ皇女だからという理由で、しかも事情が変わったからというだけで、引き離され、兄と結ばれるというのは納得がいかない。
だからルディを憎んだ。皇帝からマリとの縁談の話を持ちかけられた時、何故断らなかったのか――と。
ルディに裏切られたと、俺は感じた。
尤も、ルディなりの考えもあったのだと解っている。ルディの行動を見ていれば、ルディが何のために皇帝の座を欲したのかも解る。
現皇帝の許では、権力に阻まれて何も出来ない。だがもし自分自身が皇帝となったら、政策を断行することが出来る。きっとそう考えていたのだろう。
もしかしたら――、もしかしたらルディは皇帝となったら議会に力を与え、そのうえで自分は退位していたかもしれない。はじめてそう考えた時、ぞくりと背に悪寒が走った。
ルディが俺を裏切ったのではない。俺がルディを裏切ったのではないか――そう思えて。
『意地を張るな』
ヴァロワ卿の言葉がいつまでも耳に残っている。
「フェイ次官」
ワン大佐がテントにやって来る。フェイが振り返ると、ワン大佐はムラト次官から連絡が入っている旨を伝えた。フェイは解ったと応えて、テントを出て行く。
胸の内がもやもやとする。気持の切り替えが出来ない時の状態だった。
意地を張っていると言われ、口惜しかった。だが、その通りで――。
しかしルディを許すことの出来ない自分が居て、相反する思いが犇めいている。
アジア連邦に渡った時、もう二度と、帝都に戻らないと決めた。だが、今回、帝国の愚かな戦争が勃発した。もしルディが画策したことならば、何としても俺が食い止めてやろうと思った。
しかし、そうではなかった。ルディはもう政府の中枢には居ない。
そして、マリも居ない。
マリ――。
『ロイ。もう良いの』
憲兵達に取り囲まれた時のマリはいつまでも俺の眼に焼き付いていた。マリはあの時、諦めていた。皇帝から逃げられる筈が無かったとそう言って。
それを何故、逃げ出したのか――。
俺のことなど忘れてしまえば良かったのに。そうすれば、命を失うこともなかったのに。
『ロイ。フェルディナントを恨まないで』
マリは言っていた。
『恨み続けると、貴方自身が苦しくなる筈よ』
その通りだ。俺は自分で自分の首を絞めている。そしてもうきっと引き戻ることは出来ない。
「マリ……」
泣くまいと堪えていたのに、涙が溢れ出した。唇を噛み締め、一筋だけの涙を流し、息を吸い込んで食い止める。
泣いてはならない。俺はマリのために何も出来なかったのだから――。
「ロイ」
少し落ち着きを取り戻したところへ、フェイが戻ってきた。フェイは印を記した地図を差し出した。
「明後日の午後三時三十分に帝都侵攻が決まった。これから陸路を使い、作戦部を帝都に移動させる」
ロイが渡した地図は帝都までの道程を記したものだった。今から二時間後に此処を出立するという。
「宮殿を制圧するのにそれほど時間はかからないだろう。もっても十日だ。制圧後、アンドリオティス長官が帝国民に対してメッセージを送る」
「……そうか」
「皇帝の身柄は確保したい。今回の戦争の当事者であり、国際裁判で裁かれるべき人物だ。新トルコ共和国はそのための部隊を用意しているという。私達もワン大佐の部隊を派遣するつもりだが……。それと未確認情報だが、皇妃は既に国外に亡命したという話もある」
「皇妃が……?」
「ああ。皇帝も一緒だったのかどうか、調べているところだ」
手にしていた書類の束を揃えて此方に差し出してから、アンドリオティス長官はまず宰相を助け出すつもりらしい――とフェイは言った。
「……ロイ、本当にその部隊に参加しなくて良いのか」
「……構わん。俺はお前と共に行く」
フェイはひとつ息を吐いてから、解ったと言った。
それから二時間後、臨時作戦部はこのエディルネの地を離れ、帝都へ向けて出発した。考えてみればこのエディルネは去年の国際会議にルディと赴いた場所だった。着陸寸前に気流に飲まれ、機体が不時着した。その時、ムラト次官が機転を利かせて救助隊を要請してくれた。
それが一年後にこんな事態となるなど、あの頃の俺は少しも考えていなかった。
「レオン。少し休息をいれろ」
作戦立案書を片手に地図を眺めていたところ、ハッダート大将が突然、俺の手から立案書を抜き取って言った。
「大丈夫ですよ。ハッダート大将」