新世界
それでは困る――とフェイは俺を見て言う。
「お前の名は戦後になって出てくれば良い。宰相のことは、あのアンドリオティス長官がどうにかしてくれる」
「兄のことは構わんと言った筈」
「お前は顔に出ると言っただろう」
「フェイ。どうあっても俺の足止めをするつもりか」
いざとなれば戦争の混乱に乗じて、帝国に侵入するつもりだった。フェイが如何に止めようとも――。
「出来れば俺はそうしたい。……が、俺の眼の前に居る男は俺の手に余る頑固男で困っているところだ」
上官命令だと言っても聞かないだろう――と、フェイは肩を少し持ち上げる。
「短慮を起こさず、俺に従ってくれるというのなら、戦略室の部隊に組み入れよう。……だが、解っていると思うが、帝国陸軍と戦うということはお前も懇意にしていたヴァロワ長官と一線交えることになるかもしれないということだ」
「……覚悟している」
「尤も、出来るだけ彼は生かしたいがな」
フェイは呟くようにそう言ってから、腕時計に視線を落とした。司令室でこれから部隊編成に関する会議を行うという。俺もその会議に参加しなければならなかった。
十日後、各国の要人達がアジア連邦にやって来た。勿論、そのなかには共和国のアンドリオティス長官も居た。俺はその国際会議に参加しなかったが、会議の様子を司令室のモニターで見ていた。
フェイが中心となって、ミサイルを使用した帝国に対する制裁が話し合われる。明かな国際法の違反行為に及んだ帝国に味方する国は無かった。道義的な問題もあるだろうが、どの国も帝国という存在を快く思っていなかったから、今回が好機だと考えたのかもしれない。
帝国への経済制裁は速やかに可決された。帝国が共和国の三つの要求を全て飲まなければ、経済制裁に踏み切ることになる。
共和国は帝国に、シーラーズを返還すること、侵略行為を直ちに停止すること、国際協調を取ること、この三つをつきつけるのだという。
もしルディが宰相であったなら、このような事態には至らなかっただろう。外交官の経験があって国際批判には敏感だったから、すぐにシーラーズから撤兵させたに違いない。
否、もうルディに其処までの力は無かったか――。
きっと帝国は滅ぶ。
この戦争は帝国にまったく勝算が無い。帝国を存続させるには、共和国からの要求を飲むしかない。だが、きっと皇帝は了承しない。
帝国が滅んだ時、ルディやヴァロワ卿はどうなるのだろうか。ロートリンゲン家は――。
不意に考え込み、すぐにそれを追い払った。俺が考えたところで、どうなる話でもなかった。
「そのように銃をつきつけ、恐怖心を煽ることの何が反省に繋がる?」
アクィナス刑務所の刑吏官達は、少しでも気に入らないことがあると、囚人達に銃口を向ける。それは取るに足りないこと――たとえば、作業が遅いとか、整列の際の並び方が悪いとか――に起因する。アランやジルは刑吏官の機嫌が悪いと、銃口を向けるのだと言っていた。
先日も、作業中に機材に躓いて転んだ老年の男に銃口を向けた。打ち所が悪かったのか、なかなか起き上がれない彼を、刑吏官が銃で脅し、あろうことか――、発砲した。幸いに彼の頬を掠めたに留まったが、彼は脅えて腰を抜かした。そんな彼に刑吏官達は暴行を加えた。
囚人達は口々にまたか、と呟いた。誰も助けようとしなかった。私が向かおうとすると、アランは余計に酷い目に遭わされる――と言って制した。だが、刑吏官が一人でなく二人に増え、彼等が楽しそうに暴行を加えているのを見ると、黙っていられなくなって、アランの手を振り解き、彼の側に駆けつけた。
「5163番! また懲罰房に入りたいか!」
あの時、私は老年の男を助けるために刑吏官二人の身体を薙ぎ払ったのだが、それは刑吏官への暴力にあたるとして、丸一日、懲罰房に入れられた。懲罰房は、天井も両壁もコンクリートで固められた人一人漸く入るぐらいの狭い部屋だった。其処では身体を横たえることも出来ず、水すら与えられない。おまけに手足もきつく縛りつけられていた。そんな状態で一日を過ごした。
今日も、刑吏官が弱った老人を甚振ろうとしていたから、制止に入った。そして口論となった。刑吏官は少しでも自分の立場が悪くなると、懲罰房とか死といった言葉を口にして、囚人達に恐怖を与える。
「私は何か間違いを言ったか?暴力では何も解決しない――そんなことは子供でも知っていることだ」
「口答えをするな!死にたいか!」
刑吏官が私に銃口を向ける。平然と立ちはだかった。
死に急いでいるのではない。私は私の意見を述べているだけだ。何も間違ったことはしていない。
「元宰相だからと偉そうな態度を……!」
「私は意見を述べているまでだ」
「黙れ!」
銃口の引き金が引かれるその一瞬前に、拳銃を蹴飛ばす。パン、という音が天井に響き渡る。少し離れたところにいた刑吏官が動くな、と私に向けて言った。
ところが――。
「物騒なものは俺も嫌いでな」
その刑吏官からアランが銃を奪い取る。取り返そうとする刑吏官と揉み合いになり、それをまた別の囚人が助ける。
そうして五人の刑吏達が駆けつけるまでの10分間、刑吏と囚人達の小競り合いとなり、その結果、首謀者として私とアランが懲罰房行きを命じられた。
「黙って見ていれば良いものを……。刑期が延びるぞ」
懲罰房に連れて行かれる前に、アランにそう告げると、アランは笑って言った。
「ルディに感化されたようだ。もし懲罰房で死んだら、お前の枕元に化けて出てやるからな」
「5163番! 5150番! 無駄口を叩かずに歩け!」
懲罰房に入ると手首と足首を縛られる。壁に身体を凭れさせて休み、体力を温存させること――先日、此処に入ってそれに気付いた。真っ暗で何も見えないが、絶望を感じてはならない。何も考えず、ただ眼を閉じて休む。此処ではそれが一番だった。
私も図太くなったものだ――。
自分自身に苦笑した。アクィナス刑務所に入ってひと月が経つ。はじめのうちは体調不良と絶望で死を考えもしたが、今は全くそうした考えは無かった。何が何でも生きよう、生きてやろう――と思っている。必ず、生きて此処を出る。
「……ッ!」
左胸に締め付けられたような痛みを感じる。一瞬、息が詰まりそうになる。十日ほど前からだろうか、時折、こうした痛みに襲われている。尤も動けないほどではないから、気にしないことにした。
此処に入れられた当初、あれだけ酷い熱を出したにも関わらず、薬も服用することなく熱が下がった。私は人よりも身体が弱いから自然治癒力も劣っていると思っていたが――それこそあの時はこのまま死んでしまうだろうと思っていたが――、苦しい状態は三日間だけで、それ以後、徐々に回復していった。自分自身もその快復力には驚いた。そして、生きることへの希望が湧いたのもその時だった。
左肩を撃ち抜かれた傷跡は時折痛むが、動かせないほどではない。右手に比べると動作はまだ緩慢だが、麻痺するような感覚は少しずつ薄れている。時間はかかるかもしれないが、いずれ治るだろう。