108本の花のように
縫い目のまにまに
「お願いだ。明日まで、明日まで待ってくれ。多分、俺の人生はそのためにあったんだ……!」
鍛え上げられた筋肉質の腕が、僕の胸倉を掴む。だけどそのまま、彼は地面に崩れ落ちた。
「頼むよ……」
それが終わったら、地獄でもどこでも行くから。中嶋柊の悲鳴に近い声が、力なく漏れた。
高校野球の地方予選も佳境に差し掛かる七月。県内でほぼ唯一といっていいまともな球場からは、毎日球音と悲鳴と歓声と、そして応援歌を歌う高校生たちの声とブラスバンド部の演奏が響いている。それも、明日までだ。明日で県大会が終わり、その勝者は甲子園への切符を掴む。そしてまたこの町は、いつも通りの音を取り戻すのだ。
町の音それ自体を変えてしまうような初夏の風物詩。それでも、普段ならばこんなにもスタンドに人が溢れかえるようなことはない。今年はいつもと違う。いつもなら出場校の関係者しかいないような観客席には、地元の人々だけじゃなく野球雑誌の記者らの姿まで見える。僕の周りにもプロ仕様と思われるカメラを持った人がいて、朝子さんにかける声も、どうしても小声になった。
「今打席に立ってる子、あの子目当てらしいです」
「ふーん」
いくら混雑しようと動きに支障の出ない朝子さんが、普通に居並ぶ人々をすり抜けて、よりよく見える場所へと移動した。
カン、と音がして、高く高く上がったファールボールが、朝子さんに向かってほぼ真っ直ぐに落ちてくる。当然のようになんのダメージもないのだけれど。
「随分と勢い良く飛ぶんだねぇ」
少し驚いたような顔で、朝子さんがふよふよと戻ってきた。生で野球を観戦するのは初めてらしい。それでも、正岡子規が日本に野球を伝えた頃には既に今と同じ立場にあった朝子さんは、一応ルールは把握しているようだ。
「とにかくパワーのある選手らしいですから」
情報の出所は来る途中のコンビニで買った野球雑誌。今年の夏の注目選手特集だ。集まった人々、大きなカメラを持った、記者と思しき人々。みんなの視線は今、打席に立つ一人の少年に注がれている。
宮西柳。三年生。ポジションは捕手。プロも注目の天才パワーヒッター。去年の夏の地方大会の一回戦で、その年全国最注目の投手から三打席連続ホームランを放ったことで地元の高校野球好きの話題をさらった。ホームランを打たれた投手を擁するチームは、それでも他の面々のレベルがこの高校とは違ったのだろう、25-3という地方大会ではありがちな成績でコールド勝ちし、甲子園へと進んだのだけれど、宮西柳は全打席でその打球を外野スタンドに叩き込んだのだ。その投手は今、パ・リーグのとある球団にドラフト一位で入団し、順調にチームの新たなエースになるべく成長を続けている。ダルビッシュに田中、前田健太らに続く新世代のエースとして、故障するようなことさえなければ、新人王は間違いないだろう。チームの打線が残念なことになっているという理由で、高卒ルーキーとしては驚異的な防御率のわりに勝ち星は多くないが。
そして、チームとして、あるいは捕手としてはともかく、打者としてはその投手に完全勝利したといっても過言ではない宮西柳は、プロのスカウトの間でも注目される存在となった。野球雑誌の評によれば、リードとキャッチングは高校生捕手としてもあまり良いとは言えないが、肩は強く、打者としてのセンスと実力は飛び抜けている。
次の一球が放られる。その球は宮西柳のバットに打ち返され、まっすぐにライトスタンドへと飛び込んだ。ひときわ大きな歓声に包まれる。球場の外にいた人たちさえ、きっと何が起きたのかを察したことだろう。
その試合の、二つ前のことだった。強烈なピッチャー返しが中嶋柊の胸を直撃した。心臓震盪が起きて、彼の鼓動は止まった。だけど、誰一人気づかなかった。彼はそのまま動く屍となって、その試合でも、そのまた次の試合でも投げて勝利投手となった。そして今、九回の表を迎えてマウンドの上に彼はまだ立ち続けている。疲れを見せることも、息を上げることもなく。
「今は心臓止まっても、すぐなら助かるんでしょう?普通に倒れてれば、助かってたかもしれないのにね」
朝子さんが呟いた。そういった点も、彼の命運が尽きていたが故なのだろうとも付け加えて。
中嶋柊の投げた球が、宮西柳のミットに吸い込まれ、パン、と乾いた音がした。試合終了の知らせ。審判が「ストライク」と叫んで腕を上げるのと、球場が地鳴りのように沸きかえるのとは、ほぼ同時だった。結局、試合を決めたのは先ほどの宮西柳の3ランホームランだった。
グラウンドでは笑顔がはじける。礼を交わし、校歌が流れ、ベンチに戻った彼らは誰彼となく抱き合い、どつきあい、ハイタッチを交わす。その中心にいたのは、宮西柳と中嶋柊、快進撃の立役者となったバッテリーだった。
「俺は確かに、県内だったらわりと上のほうのピッチャーだとは思うんです。それどまりだろうけど」
中嶋柊は、はっきりとそう言い切った。驕りでもなんでもない。去年あれだけ失点を重ね、宮西柳を擁しながらも甲子園どころか地方一回戦止まりだった公立の進学校の野球部がここまで来れたのは、彼の力あってのことだ。
「俺が踏ん張れれば、柳が点を取ってくれる。そうすれば、甲子園にだっていけるかもしれないし、柳は甲子園に行ってくれなきゃ困るんだ」
だから、待ってくれと。そう言う声はかすれそうだった。
スポーツマスコミの注目度が高まったのは去年の夏の大会だ。それでも、中学時代から、宮西柳は県内の野球関係者には知られた存在だった。伝統的なお嬢さん女子校以外に私立中学なんかない田舎県では、生徒数の多少以外では元々強豪となれる理由はなく、ほぼどこの学校だろうと実力のある先生にたまたまいい選手が揃えば県大会を制覇できる。この学年における「いい選手」のひとりに当然宮西柳も入っていたし、中嶋柊とバッテリーを組んだ三年次には全県優勝を果たしている。中学卒業時には県内の私立の強豪から誘いがいくつもあった。しかし、彼が選んだのは地元の公立だった。対外的には、「実家から通えて便利だから」と答えていた。
「違うんです、俺のせいなんです」
中嶋柊はそう言った。
「中一ん時に初めてバッテリー組んで、勝って。あんなに凄い奴と同じチームなのが嬉しくて舞い上がっちゃって、一緒に甲子園行こうな、なんて約束しちゃって」
下宿して私立に行く経済的な余裕も、ましてや野球だけで奨学金がもらえるほどの実力もない自分に合わせて、柳は高校を決めてしまったのだと、そう彼は言った。
「だから俺は、あいつを甲子園に連れて行ける投手にならなきゃいけなかったんです」
そのためだけに、ここまで来たのだと、彼はそう言った。
「おい」
がし、と肩を掴まれた。
「柊に何してんだよ」
気づくと、そこに立っていたのは大柄な少年だった。
「柳」
中嶋柊がはっと振り返る。
作品名:108本の花のように 作家名:なつきすい