108本の花のように
木蓮氏の声が、表情が、止まった。朝子さんは変わらない。彼にとっておそらくは、一番残酷な事実を告げる時でさえも。
「あなたは、もう死んでるから」
実感なんてできないだろう、その宣告。木蓮氏は、動けない。口すらも半分開いたままで。
「死んでるってことは、命運が尽きたってこと。文字通り」
命と運、その両方が尽きた生き物が動き続けることはできない。木蓮氏のような生ける屍だって、それは変わらない。活動し続けるためには、足りない分を補わなければならない。
「あなたが動くために必要な命と運、どこから手に入れてると思う」
答えは要求していない。思考するための時間すら空けずに、朝子さんは答えを突きつけた。
「まわりの人のそれを奪って、あなたは生きてる」
豊島薄荷の不調、関口茉莉花の容態悪化、解決こそしたものの木下菖蒲が急にヤクザに差し出されるような事態になったこと、そして借金取りに連れ去られた今浪撫子、未だ行方のわからない谷元花月。
彼女たちの現状が、点から線となって繋がったのか、木蓮氏の顔が青褪めていく。死んでいたのだということを思い出させるような、そんな色だった。暫し呆然と、木蓮氏は動かなかった。僕は何もできない。ただただ、その姿を見ているだけだ。
「嘘、だろ」
嘘じゃないことを、木蓮氏はとうにわかっているのであろうことが、その声から伺える。それを信じたくないということも。
けれど、直後にかかってきた電話の声に、木蓮氏はその事実と直面させられた。
「茉莉花ちゃんが、また発作起こした」
そう告げる豊島薄荷自身の苦しそうな声と、次いで聞こえた鈍い音、「大丈夫ですか」という看護師の感情をさしはさまない呼び声、ストレッチャーの音。木蓮氏は暫く電話に向かって豊島薄荷の名前を叫んでいたけれど、その電話もやがて切れた。
「……………………」
自由になっていた右手から、携帯電話がごとりと音を立てて畳に落ちた。
電話から、通話が途切れたことを示す音が鳴り続ける。その音すら聞こえなくなった頃。
木蓮氏は、顔を上げた。
市街地から少し離れた山林の、不法投棄された粗大ゴミの陰に隠れるように、彼女は膝を抱えて蹲っていた。
「花月」
名を呼ばれた少女はびくりと身を震わせ、おどおどとした視線をおそるおそる上げてくる。やせこけた体躯に不釣合いな大きすぎる眼ばかりが目立つ、不健康そうな少女。谷元花月だった。小動物のようなその視線が、木蓮氏のそれと重なる。呆然としたように、谷元花月は動けなかった。或いは、衰弱が激しいためかもしれない。
「もくれん……?」
上げた声は震えていた。耳を澄まさなければ聞こえないほどのかすかな声だけど、木蓮氏には確かに届いていた。
「どうして」
小さな体の横には、華奢な少女にはあまりにも似合わない大きなナイフ。木製の柄に染み付いているのは、木蓮氏の血液だろう。
「俺があのぐらいで死ぬか」
木蓮氏は笑って言った。力強く。活力に満ちた表情で。
「ケガだって大したことない」
だから、と続ける。
「花月は、人殺しじゃないんだ」
「…………!」
谷元花月が、はっきりと顔を上げた。縋るような目で木蓮氏を見上げる。彼女の目にはきっと、木蓮氏の笑顔が映っているはずだ。そんな気がした。
「あんなことさせて、ごめんな、花月。お前は何も悪いことしてない。安心して家に帰れ。風邪引くぞ」
木蓮氏が手を差し出す。谷元花月はおずおずと手を伸ばして、木蓮氏はそれをぎゅっと掴んだ。その手の氷のような冷たさは、きっと季節外れの手袋に阻まれて伝われなかっただろう。
できることはすべてやった。そう言って、木蓮氏は晴れ晴れとした表情を見せた。梅雨の合間の、この空のような。
生命保険の受取人を、今浪撫子に指定した。全額とは言わないまでも、闇金の分ぐらいはなんとかなりそうだ。そこから先は彼女が自力でなんとかするしかないが、闇金との縁が切れるよう、手配は済ませた。
谷元花月は、実家に送り届けた。引きこもりと精神的な不安定の要因のひとつは、この街での慣れない一人暮らしでもあったらしい。そして、今更彼女が殺人犯として追われることはない。
木下菖蒲も、もう大丈夫だろう。珍走団からの脱退を決意したときから、既に生活の基盤を立て始めていた。経済的には問題はないし、二度と彼女に関わらない旨覚書も取ってきたそうだ。
そして、関口茉莉花には。
「頼んだぞ」
「わかった」
小さく朝子さんは頷いた。木蓮氏は、保険証カードの裏をもう一度見直し、不備がないことを確かめた。
「あと、これも」
そう言って、物に触れない朝子さんの代わりに僕に手渡したのは封筒。
「薄荷に」
「わかりました」
今、豊島薄荷は緊急帝王切開の真っ最中だった。だから、もう会うことは叶わない。もたもたしていると、彼の命運を補うために、彼女とその子の命は失われてしまうかもしれないのだ。
「じゃあ、頼んだ」
頷こうとして、――僕は、動けなかった。
木蓮氏の、あまりにも満足そうな顔を見たら。
これからまもなく死にゆく人の顔とは、どうしても思えなかった。すべてをやり遂げた満足感は、未練や死の恐怖を超えて、人にこんな幸せそうな顔をさせることができるのだろうか。
僕は、こんな顔をしたことがあっただろうか。こんな顔で、終わることができるだろうか。
そんなことを思ってしまって、僕は動けなかった。
ヘルメットを被らずに、あの改造バイクにまたがる。行き先は、たったひとつ。
名前を呼んだ、つもりだった。声がかすれて出なかった。理由がわからない。
聞きたいことができたのに、言葉にならない。
「それで、いいんですか」と。残りの時間もなにもかもを、この人は他人のためだけに使った。そもそもこの人の生前の生活のすべても、他の人たちの幸せのためにあったのだ。
五股かけて、そのうちの一人に刺し殺される。どれだけのろくでなしだろうと思っていたのに。
バイクのエンジンの音が響く。木蓮氏の動作は本当に流れるようで、躊躇いも迷いも恐怖も、そういうネガティブななにもかもを、そこから読み取ることはできなかった。
わかってる。止めたって、何にもならないことぐらい。木蓮氏が動き続ける限り、彼女たちは救われない。そしてそれは、木蓮氏が最も望まないところだろう。
これがベストなんだ。これしか、ないんだ。わかるけど、でも。
こんなに、誰かのために生きて、こんなにも嬉しそうな人を、僕は知らなかった。
「それで、いいんですか」
この問いに対する疑問の答えなんて、聞かなくてもわかる。聞くだけ野暮だ。だけど。だけど僕は。
どうしてこの人が生きていることが許されないんだろう。そんなことを、初めて思ったんだ。
青い空と六月の新緑にやたらと映える真紅が目に入って、やっと金縛りが解けたように僕の手が動く。携帯を取り出して、119をコールする。冷静に、場所と状態を告げて、朝子さんの鎌が振り下ろされるのを、僕は見守った。
関口茉莉花の意識回復の報は、豊島薄荷の病室で受け取った。
「良かった」
作品名:108本の花のように 作家名:なつきすい