108本の花のように
「木下菖蒲を抜けさせるために。カタギの人間が一方的に乗り込んできていきなり指を詰めるって言い出しただけでもアレなのに、……切手も出血しないし、痛がりもしないんだもん。さすがのヤクザ屋さんの皆さんもドン引き。……そりゃ、怖いよね」
彼が本来死んでいることが、こんな形で幸いするなんて誰が想像しただろうか。もし本人がわかってやっていたのだとすれば相当だけれど。
「さすがにいくら相手を怖がらせても、木下菖蒲を抜けさせるので精一杯だったみたい。向こうだっていくらあれでもヤクザの端くれだし、さすがに末端の金貸しの細かい仕事までは把握してないだろうしね」
今浪撫子のことだ。さすがにそこまで上手くはいかないか。子会社の小口顧客のことを把握している親会社の役員など、一般企業でもそんなにはいないに違いない。普通に考えれば、ヤクザ者を相手に、差し出された女性を指を詰めるぐらいの代償で奪い返せたことが大金星、故障者続出でやむなく昇格した万年二軍の守備型選手が九回裏ツーアウト三点差の場面で、相手のクローザーからまさかの逆転満塁サヨナラホームランを打つようなものなのではないかと思う。そしてその奇跡の大逆転の要因は、意図せずして本人が置かれていた状況だった。皮肉、というのもどこか違う気がしたが。
やがて怯えた目をした組員たちに追い払われるようにして木蓮氏と木下菖蒲が出てきた。まさか抜け出せるとは思ってもいなかったのだろう、夢でも見ているようなふわふわとした表情をその美しく整った顔いっぱいに浮かべていた。写真で見た彼女の顔とは違い、眉毛は綺麗に整えられ、髪の毛も先端の一部を残してほぼ黒くなっている。ここ数日の出来事のためか目の下の隈と疲労感はあるものの、十分に美しかった。時折はっと思い出したように木蓮氏のなくなってしまった小指に心配そうに目をやっていたが、そのたびに木蓮氏は大丈夫だと笑って見せた。彼女は、その場面を見ていたのだろうか。そんなことが少し気になった。
ふたりが角を曲がって見えなくなったのを確かめてから、組員が必死の形相で塩を撒き、お札を立派過ぎてカタギの人間にとっては嫌な予感しか感じさせない門へと貼り付けていた。余程不気味だったのだろう。全身を黒のスーツで包んだ、身長が185はあろうかというサングラス姿の男としては、あまりにも滑稽な姿だった。
木下菖蒲を落ち着かせ、次に木蓮氏が取り掛かったのは金策だった。今浪撫子の抱える借金は、とてもとてもまともな職も、それにありつくための学歴も持たないひとりの女の子が返しきれるものではなかった。そしてそれは、木蓮氏のようなフリーターがひとり増えたところで、変わるものでもない。
「どうするつもりなんだろ」
とても返せるとは思えない。それでも、木蓮氏は愚直に働いて金をつくり、少しでも足しになればと今浪撫子に渡してきた。
自己破産とかすればいいのに。そう口にしたら、豊島薄荷は首を振っていた。
「……元工場つきのちっちゃい一軒家。撫子ちゃんのたったひとつの宝物。それを守りたいから、破産はできないんだよ」
彼女は、一家心中の生き残りだった。
今日の分の日当を受け取った木蓮氏は、すぐにその足で次のバイトへと向かった。次は、出前の配達。このバイトは三日前に始めたばかりだ。あの日以来行方を眩ましてしまった谷元花月を探すために。
豊島薄荷は、すべてを聞かされていた。谷元花月に刺されたのに、夢だったみたいに怪我が痛まないことも、その後谷元花月が姿を消してしまったことも。豊島薄荷本人は谷元花月とは直接面識はなく、木蓮から聞いたところだと、と前置きをした上で、重度の人見知りでほぼ引きこもり状態だったという谷元花月の行動範囲は極めて狭いと話してくれた。思わず逃げ出してしまった跡も、見知らぬ場所で元気にやっていけるほど胆は据わっていないはずで、自宅といきつけの本屋とコンビニ、周辺のカラオケやネットカフェあたりをくまなく探せば見つかると、木蓮氏は考えているらしい。彼女の行動圏をうろつきつつ、今浪撫子の借金の返済のため、この職を見つけてきたのだという。けれど。
「一気に返さないと、またあっという間に利子が凄い額になっちゃう。トイチって、犯罪だよね。それで弁護士の人にも相談したらしいんだけど、撫子ちゃんちそういうトコ以外にも、まともな銀行にもたくさん借りてて、結局自己破産の話になって、弁護士さんからも逃げてきちゃったらしいんだ」
今更もう誰も居ない生家さえ諦めれば、どうにでもなるんだろうに。僕が呟いても、豊島薄荷と朝子さんは同時に返した。
「そういうわけにいかないんだよ」
更に、朝子さんはこうも付け加えた。
「葵ちゃんには、まだわからないだろうけど」
三時間が経過した。今日も、谷元花月を見つけることはできなかったようだった。タイムカードを押し、店から出てくるその肩は傍目にわかるほどはっきりと落とされていて、けれどそれは一時のことだった。すぐに背筋を伸ばすと、バイクで走り出す。次に行くところはわかっているので、尾行がバレないよう、距離をとりつつ目的地へと向かう。今浪撫子を匿っている、豊島薄荷の自宅アパートだ。
けれど。
怒号、叫び声、硝子の割れる音、野次馬のざわめき。僕らが到着した時、一帯は異様な空気に包まれていた。
アパートを中心に、半径十メートルの綺麗な円周を描くように人だかりができている。
何がしたいんだ、この人たちは。そんなことより、今はまず。
ちらりと朝子さんを見る。どれだけ人垣があっても触れられない彼女には障害にはならない。まっすぐにアパートの中へと壁すら無視して入っていく。僕は人波を掻き分けて、どこか腹立たしいほどに見事な円周を崩し、その後を追いかけた。
豊島薄荷の部屋で目にしたものは、柱に縛り付けられた木蓮氏、破られた障子紙、穴の開いた襖、それから、蛍光灯と窓ガラスの破片。本来の住人の趣味なのか、それともアパートの基本のつくりをいじっていないのか、落ち着いた和の内装は嵐のような暴力によって見る影もなかった。
「木蓮さん」
血走った目で訴えているのは拘束を解いてほしいということか。怯えのようなものは見られなかった。この機に朝子さんに成仏させられる、とは思っていないようではあった。
「葵ちゃん、とりあえず猿轡だけ取ってあげて」
僕は指示に従う。手足の拘束はそのままだ。不満そうな様子を隠そうともしない木蓮氏だけれど、今浪撫子の身の安全を考えると解放はできなかった。
「助けろ死神! 撫子を見殺しにする気か!?」
そんな奴らだとは思わなかったのに、と叫ぶ声。だけど、朝子さんは欠片も動じた様子などみせない。
「そんなつもりないよ。あなたが助けに行くなら、それこそ今浪撫子はもっと大変な目に遭う」
別に誰かを死なせて私に良いことがあるわけでもないし。そう呟くように口にしたのは、死神と呼ばれたことに対するあてつけだろうか。
「なんでだよ! 早く助けに」
「あなたが生きていることが、まわりのみんなを不幸にしているんだよ」
作品名:108本の花のように 作家名:なつきすい