108本の花のように
「一体、どうしたかったんだろうなぁ」
その問いに、僕が答えを出せるわけもない。
「薄荷?」
答えを持っているとすれば、この人だけだ。
「木蓮!」
目をぱっと輝かし、豊島薄荷は大きいお腹に負担をかけないような歩き方で、例の彼へと駆け寄った。木蓮氏は、六月だというのに首元まである赤いインナーの上にジャケットを羽織っていた。多分、傷口と出血を隠すためだろう。だけれどそれ以外は、とても死んでいるようには見えない。
どうしよう。捕まえるべきか。声を掛けて来て貰おうか。それとも朝子さんを呼ぶか。ひとりだったら迷わないけれど、ここには豊島薄荷もいる。とりあえずいなくならないように見張っておくべきか。
迷っていると、おそらくそんなことは露ほども知らないだろう、豊島薄荷はにこにこと続けた。
「私のお見舞い?それとも茉莉花ちゃん?」
「両方」
思わず、一応知らない振りを装っていた顔を思い切りふたりへ向けてしまった。
「そう。私は大丈夫だよ。順調だって。生まれるまで入院してたほうがいいみたいだけど」
「良かった。来週だよな?」
「うん」
凄く普通に、穏やかに会話をしている。
だけど、豊島薄荷はすぐに表情を曇らせた。
「茉莉花ちゃん、また発作だって」
「ああ。……発作起こしたとき、茉莉花のとこにいたから」
「……大丈夫、なの?」
木蓮氏は答えない。そこから、容体が良くないことを悟ったのだろう。豊島薄荷の表情が更に暗くなった。
豊島薄荷と関口茉莉花は面識がある。少なくとも、豊島薄荷のほうは関口茉莉花の存在や、どういう人物なのかも、彼女の大まかな容体までもを把握している。その上で心配し、嫉妬している様子も、少なくとも表には出していなかった。
一体、どういう状況なんだ。なんだか頭がこんがらがってきそうだった。
「木蓮忙しいでしょ。茉莉花ちゃんの様子私が見てくるから行っておいで。菖蒲ちゃんと花月ちゃんも、まだ見つからないんでしょ」
頭がくらくらする。木下菖蒲と谷元花月のことまで知っているのか。一体、どういう状況なのだろう。
「悪いな」
何に対しての「悪い」なのか。それすら僕は読み取りあぐねる。
わけがわからなかった。この人たちは何がしたいのだろう。本命の余裕? そんな感じでもない。
ただただ、それが当たり前であるような、そんなやりとりに僕には思えた。
「お前も無理はするなよ、薄荷」
「大丈夫だって。何のために入院したと思ってるの」
そう言って小さく笑った瞬間、
ぐらりと、豊島薄荷の身体が傾いて。
「薄荷!」
咄嗟に木蓮氏が傾いた彼女を支える。その声に、直ぐに売店にいた看護師たちも気づいて駆け寄った。
「あー、ごめん。ちょっとくらっと来ちゃった。茉莉花ちゃん見てくるの少し休んでからでいい?」
「いいから! お前だって元気なわけじゃないんだから休んでろ!
「大丈夫だよ。私は病気じゃないし」
「馬鹿! いいから部屋帰れ! 漫画ぐらい買って部屋に持ってってやるから!」
木蓮氏は豊島薄荷が立ち読みしていた雑誌を取り上げると、ずんずんと早足でレジへと直行した。その間に崩れた体勢は看護師たちによって立て直されている。木蓮氏がいなくなると、彼女の顔からは笑みが消え、辛そうな様子をちらりと表へ出す。しかしそれも、木蓮氏が会計済みであることを示すテープが貼られた雑誌を片手に戻ってくる頃には、すっかり顔の奥へと隠されていた。
看護師たちに支えられながら、嬉しそうに雑誌を持って産科病棟へと向かう豊島薄荷をエレベータ前で見送り、そのドアが閉められる。 そして、玄関に向けて歩みを進めようとしたところで。
「すみません」
その顔が、僕に向けられる。あの一瞬すれ違っただけの僕の顔なんて、覚えていないだろうけれど。
「糸数、木蓮さんですよね」
木蓮氏は、見ず知らずの僕に、驚くほどあっさりとついてきてくれた。駐輪場までの道中、聞かれたことはたったの四つ。
「茉莉花のことですか」
「撫子の知り合い?」
「菖蒲の仲間か」
「じゃあ……花月?」
たった今病室に行くのを見送ったばかりの豊島薄荷以外の四人の名前を、木蓮氏は次々と挙げた。
自分に声を掛ける人物の心当たりが、彼女たち絡み以外にないのだろうか。僕が直接の知り合いじゃないからかもしれないけれど、それにしたって、他の交友関係の気配がまったく漂ってこない。その全部を否定すると、本気で心当たりがないらしく怪訝そうな顔をしたけれど、それでも逃げるでも警戒するでもなく、僕の横を歩いている。
至近距離で見る木蓮氏は、がっしりとした筋肉質な体格で、確かに女の人にもてそうではあった。肌も日焼けして見るからに健康そうだ。職業は確か複数のバイトを掛け持ちしているフリーターであったはずだけれど、どれもガテン系だったような気がする。いかにも頼りがいがありそうで、どちらかというと昭和の男前のようだ。だからといって、五股をかけられてそれを知って尚笑っている豊島薄荷が何を思っているのかを理解できるわけではないのだけれど。
裏口から病院を出る。外は雲ひとつない晴天で、眩しさに一瞬目がくらみそうになる。青空の下、木蓮氏のバイクの横には、いつも通りこの爽やかな初夏の空模様にはあまりにも不似合いな黒い浴衣姿の朝子さん。木蓮氏がその異様ないでたちに目を留めたのがわかる。見えているのだ、死神が。
「糸数木蓮さん、だね」
問いかけではなく、確認だ。木蓮氏の表情が一瞬強張る。彼には、朝子さんの姿がどのように見えたのだろう。普通の人間とは違うように見えているのだろうか。僕の目で見える、木蓮氏自身のように。
「もう死んでるって、気づいてる? 七日前に、谷元花月に刺されたときに」
「…………やっぱ?」
僅かに間を置いて、想像していたよりもはるかにあっさりとした、平然とした返事に驚いて、固まったのは僕だった。
「なんで、死んでねぇんだろって思ってた。やっぱ死んでんだ、俺……」
そういって、木蓮氏は刺された首元に手をあて、その手をすっと耳の下へと滑らせた。十秒程待って、静かに、小さく首を振る。
「気のせいじゃ、なかったんだな」
その意味がわかって、僕は何もいえなかった。
心臓が止まっていること。わかってたんだ、この人は。
木蓮氏は取り乱すことも悲しげな様子を見せることもなく、少し怪しむような表情で、僕と朝子さんを交互に見た。
「で、あんたらは誰? 何でそれを知ってる? どうして俺が殺されたのに、普通に動けるのかも知ってんの?」
「うん」
朝子さんは、淡々と答えて頷いた。
「あなたが普通に動けているのは、死んだときに魂と身体がきちんと切り離せなかったから。原因までは知らない。人によりけりだけど、未練が強い人だとそういうことになりやすいとも言うよ。全然未練なんかないのに死に切れてない人も見たことあるけど。で、ね」
一呼吸置く。息なんか、もう百年単位でしていない朝子さんだけれど。
「そういう人がいると、良くないの。まわりの、まだ完全に生きている人たちに迷惑がかかる。私たちは、あなたの身体と魂を、完全に切り離しに来たの」
作品名:108本の花のように 作家名:なつきすい