108本の花のように
試合は止まったままに見え、けれど、砂時計が落ちていくようにじわりじわりと流れが傾く。
その、重たい均衡は、矢のように破られた。
「柊!」
ざわついた球場が、しん、と静まり返った。宮西柳の声だった。ブラスバンドすら沈黙した。宮西柳が、マウンドへ駆け寄る。さすがに会話の内容は聞こえない。当たり前だ。相手チームに聞かれては話にならないし、そのために口元をグラブで隠している。
その間、なぜか、誰も口を開かなかった。応援の声すら止んでいた。ただただ静かで静かで、球場の外の人は何が起きていると思っただろう。
誰もが、何も口にしなかった。ただただ、マウンドの二人を見詰めていた。共に守る仲間たちも、一塁と三塁に立つ走者も、双方のベンチも、そしてスタンドの観客たちも。
その間、一分ほど。内野手が集まることもなかった。試合中の球場で、こんなにも静謐な空気が満ちているという異様な光景の中に、僕はいた。
やがて、二人は頷きあって、それぞれのいるべき場所へと戻った。
宮西柳はホームベースの後ろへ。そして中嶋柊は、マウンドの天辺へ。捕手と投手の、いるべき場所に。そしてそれと同時に、場内に音が戻った。時間が止まったかのようだった球場が、再び動き出した。
セットポジション。第一球は、乾いた音を立てて宮西柳のミットへと吸い込まれる。バットが空を切った。ワンストライクノーボール。
二球目は、わずかに外れ、見送られてボールとなった。一瞬、中嶋柊が悔しそうな様子を見せた気がした。ストライクを取りに行った球だったのかもしれない。
そして、三球目。宮西柳のサインが出てから、一瞬、間を置いて。
大きくひとつ、頷いた。
投げたボールは、やや高く浮いていた。それを逃すことなく、打者のバットはそれを叩く。ボールはレフト前に落ちた。三塁ランナーがホームベースを踏む。同点。球場にため息が立ち込める。まだ終わっていない。一塁ランナーが三塁を回った。左翼手から遊撃手を経由して球がホームへと飛んでくる。間に合え、間に合え、間に合え間に合え間に合え間に合え
「間に合えぇぇぇぇぇ!!!!!」
僕は、絶叫していた。声なんか出ないぐらい、体力は枯渇しているのに。腹の底から叫んでいた。気が付けば、白球は宮西柳のミットの中へ、ランナーはベースに突っ込んでいる。
頼む、頼むから、間に合っていてくれ。
だけど、その願いは、審判の「セーフ」の動作で、儚く消えた。
サヨナラ負けだった。全身の力が抜けた。中嶋柊がマウンド上で崩れ落ちるのを、遠くに見ていた。
そこで、意識がぶつりと途切れた。
ありがとう、と言い残して、中嶋柊は逝ったそうだ。本当は僕に直接言いたかったそうなのだけれど、彼が動き続ける限り、僕の意識は戻らないと朝子さんが判断した。
県大会決勝戦で、彼らの夏は終わった。
その表情は、予想外にさばさばしていたというか、何かを吹っ切ったようなそれだったと、朝子さんは言った。目は、散々泣き腫らした赤だったらしいけれど。
「連れて行きたい、ってのがそもそもの間違いだったんだ」と、中嶋柊は言ったらしい。
「一緒に目指すところだったんだよな、甲子園って」
なんでそんなことを、忘れてたんだろう。もう、二年半も。そう言って、彼は笑った。
「あいつが甘ったれなだけじゃなくて、俺があいつに過保護過ぎたんだ。もっと、早く気づいてればよかったな。生きてたときに」
そう言って、少しだけ悔しそうに、笑っていたという。
「ああ、そうそう。宮西君のことだけど」
その名前に、多分僕の顔は強張ったのだろう。試合に負けて、中嶋柊まで失って、彼はどうしただろう。
「……知ってたよ。あの子も葵ちゃんと同じ、見える目を持った子だった」
「え」
「思ったより多いね。もうちょっと目立たないようにしないとダメかなぁ」
「えー」
僕に豊島薄荷に、宮西柳まで。前に聞いた比率と随分違うような気がするのは気のせいか。
「それかひょっとして、身近に見える人がいると影響があって、死んだときにうまく死ねなくなるのかもしれないね。葵ちゃんも将来、気をつけたほうがいいかもよ」
気をつけたほうがと言われても、どう気をつけろというのだ。
「わかってたから、ピリピリしていたみたいだね。どういう話し合いをしたのかは教えてくれなかったけど、納得してくれたって言ってた。柳君は、柊君がいなくなってもプロを目指すって」
「そう、ですか」
良かった、というのとは違う。だけど、なんて言えばいいのかわからなくて、僕はそう答えた。朝子さんが、少し笑った気がした。
「あとね、これ、葵ちゃんにお礼にって」
「お礼?」
「最後に野球をさせてくれたことと、『間に合え』って言ってくれたことのお礼だって」
僕は、目を丸くした。聞こえているわけがないのに。
取り出したのは、使われた形跡のない硬球。どういう意味か考えて掌で転がして、油性マジックで何かが書かれているのが目に入った。
「……サインボール? 柳君の」
「そう。将来絶対お宝になるからって」
「そうなるといいですね」
僕は少しだけ、笑った気がした。少し誇らしそうな中嶋柊の表情が、目に浮かんだ。
「あとね。野球は煩悩だって」
朝子さんが、よくわからないことを口にした。煩悩、と聞き返すと、朝子さんが小さく笑った。
「野球ボールの縫い目の数って、百八個あるんだって。人間の煩悩と同じ数だね。嬉しいことも怒ることも悲しいことも楽しいこともなにもかも全部、これに詰まってるんだって。若者とは思えない発想だと思ったら、あの子のおじいちゃんお寺さんだってさ」
「ああ、でもなんか」
わかるかもしれない、と、そう思った。
「柊君、木蓮さんと似てますよね」
僕は、ふとそんなことを口にしていた。朝子さんが振り返る。
「そう?」
「だって、ふたりとも、今自分が死ぬ、って言うのに他の人のことばかり気にして。自分の事なんかどうでもいいみたいに」
そう言うと、朝子さんは口元に小さく笑みを浮かべた。
「今自分が死ぬ、って時だからかもしれないよ」
それが、わからない。僕はふよふよと浮く朝子さんを見上げた。
もし明日世界が終わるとしたら何がしたいだとか、最後の晩餐で何を食べたいだとか、そんなような問いが時々出るけれど、彼らの行動と、そういう問いのよくある答えとは合わないような気がした。けれど。
「だって、何かを残したいって生物の基本的な願いでしょ。生きてるものはみんないつか死ぬ。だからみんな何かを残そうとするわけで、その最たるものが子孫。だけど、それはもう間に合わない。なにか大きなことをして名を残すのも無理。後世に残せるようなものをつくる時間もない。そんなときに、周りに自分が今日一日行動したら、その後の一生にまで関わるような影響が出そうな人がいたとしたら?」
なにかしたくならないかな。そう、朝子さんは言った。
「どうせ今更なにしたところで、もう自分の利害は関係ないんだから、それこそ自分の全部を捨ててでもなんでもできちゃうしさ」
そして、朝子さんはにんまりと笑った。
「葵ちゃんはそうなったとき、最期に何をしたがるんだろうね」
作品名:108本の花のように 作家名:なつきすい