108本の花のように
どうせそれはもう叶わないんだ。そう言って、朝子さんをじっと見詰めた。
「だから、頼む。どんな手を使ってもいい。……なんとかなるんなら俺じゃなくたっていい。あいつを、甲子園にいかせてくれ。それが俺の、最後の夢なんだ」
俺じゃなくていい、と言っても、今この学校に中嶋柊の代わりになれる投手はいない。次の相手は今まで何度も甲子園出場経験のある私立の強豪だ。彼以外が投げればほぼ確実に五回コールドだろう。
「なんとか、できませんか……」
こんなにも、強い願いがあるのに。あと一日、あれば叶うのに。
「どうにか、できないんですか」
僕も、思わずそう口にしていた。朝子さんが少し驚いたように僕を見る。
「葵ちゃん」
「このままじゃ駄目なのはわかります。それこそ、宮西君が選手生命に関わるようなケガをしてしまうかもしれない。一番柊君と繋がりが強いのは、宮西君だろうし」
途端、中嶋柊の顔が強張る。彼がもう生きてはいなかったことを思い出させるように、顔が青褪めていく。
「柊君が、ほかの人の命と運を使わないと動けないのも、それがどんな影響を及ぼすことなのかも、わかってます」
「うん」
朝子さんが小さく頷く。
「例えば……柊君と強いつながりがなくても……命と運を供給したりとかは、できませんか」
朝子さんの目が、丸くなった。いつもの飄々としたとらえどころのない端正な顔に、はっきりとそれとわかる表情が浮かぶ。
「葵ちゃん、」
「朝子さん結構その辺のずる効くんじゃないですか? 木蓮さんのときみたいに」
「…………」
木蓮氏のときのずる。それは、とうに止まっていたはずの木蓮氏の心臓を、あたかも動いているかのように偽装したことだ。いくら動く屍としてまったく劣化していない心臓を持っていたとしても、心停止と判断されれば提供は出来ない。あの時、ただの交通事故の頭部外傷による脳死と見せかけて、心臓を動かし、臓器提供を可能にさせたのは朝子さんだ。これは、朝子さんと木蓮氏が相談していたのを聞いたので確実だ。
それだけじゃない。谷元花月と今浪撫子の問題が解決するまで、朝子さんは木蓮氏を見逃した。あのふたりの命と運が完全になくなっては共倒れになる状況だったし、豊島薄荷と関口茉莉花は命の危機にあった。
ぎりぎりのところで全部なんとかなるように、どこかで調整をかけたのは朝子さんじゃないか。僕はそう踏んでいた。もしかしたら、僕の命運を使って。
「……葵ちゃん、思ったより鋭いね。先入観がからっぽだからかな」
最後の一言は、聞き流した。
真夏だというのに酷い寒気がする。暑いよりいいかもしれないけれど。32度の気温の中、スタンドでがたがた震える自分の姿は明らかに奇妙だが、幸いなことに誰もこちらを見てはいない。今みんなの視線は、マウンド上の中嶋柊に向けられていた。
一瞬たりと気を抜けないシーソーゲームだった。宮西柳を四番に据えた打線はいつも以上に好調で、連戦で疲労もあるだろう向こうの投手から点を取る。しかし相手は出場経験が何度もある私立だ。捕手としてはほぼ当てにならない宮西柳のリードに、球威で押すタイプではない中嶋柊の投球は元々あまり相性の良いものではないはずで、配球ミスを捕らえられてはもう既に四本のホームランを浴びている。八回を終えて、双方共に二桁得点となっていた。
その試合を見ている僕の意識は、半分吹っ飛びかけていた。とにかく、ひたすらにだるかった。さっきから何度も何度もファウルボールがこちらをめがけて飛んでくる。ひとつ避けきれずに喰らってしまった。運も命もいいだけ吸い取られているのだろう。そして直撃されたはずの手に痛みを感じない。そろそろやばいかもしれない。僕一人分の容量で、ふたり分、それも真剣勝負に臨んでいる人と自分を支えきるのはやはりきついようだった。生きている気がしない、というのが一番近い。多分今僕の身体は限りなく死体に近づいているのだろう。感覚が遠のいていく。きっと老衰で死ぬとしたら、こんな感じなんだろうなとそんなことをふと思った。朝子さんが何か言っているが聞こえない。ぼんやりしていると頭上にぬっと手が差し出された。どうやら、僕の真上から降って来たファウルボールを隣の人がキャッチしてくれたようだった。球場でぼんやりしてると危ないぞ、そんなことを言われた、気がしたが、それさえも遠い。
「葵ちゃん、葵ちゃん聞こえる? ……起きてる?」
ゆっくり、しっかりと話しかけられて、ようやく言葉を拾える。僕は小さく頷いた。
「今、九回裏。あの子達が二点差で勝ってる。でも、ツーアウトで一、三塁」
その言葉に、僕は意識がすうと冴えていくのを感じた。スコアボードに焦点を合わせる。フルカウント。あとワンストライクで勝利、だけど、長打が出れば同点だ。
僕は残りの体力を振り絞って顔を上げた。目を凝らした。マウンドの上から、中嶋柊がじっと宮西柳を見詰めていた。サインのやり取りをしているのだろう、ひとつ首を横に振る。何度かそれを繰り返し、中嶋柊ははっきりと頷いた。右腕から、白球が放たれる。カキンと高い音がした。打球は小さく跳ね上がって、ショートの後ろにぽとりと落ちて転がった。サードランナーが悠々とホームベースを踏んだ。一点差に迫られる。ファーストランナーも三塁まで進んでいて、未だツーアウト一、三塁のまま。次打たれたら、追いつかれてしまう。だけど正直言って、延長戦にもつれこんだら僕が持たない、そんな気がする。そして僕の命運がつきたら、そのときは中嶋柊もおしまいだ。そして、もし二点を取られたら。試合が終わる。甲子園へは、行けない。
空気が、向こうへ傾いているのを、僕は感じた。球場がざわつく。九回裏だ、ここを落とせばもう、取り戻せない。どうしよう、どうするんだ。中嶋柊が、ランナーへと視線をやった。一塁へと牽制球を三球続けて投じた。もうツーアウトだ。ここまで来てしまったらランナーを気にするより打者と勝負したほうがいいんじゃないか。今打席に立っている彼さえ押さえられれば、どれだけ大きな外野フライだろうと、俊足のランナーがどれだけ良いスタートを切ろうと、試合は終わるんだ。もう一度、一塁へと牽制球が飛ぶ。一球無駄にボールを投げるごとに、試合の流れが向こうへと傾いていく、そんな気がしていた。確かに一塁ランナーに生還されたら試合が終わる。だけど、あれだけ牽制されて飛び出してアウト、ということはないだろう。もしうっかり一塁手がそのボールを落としたりなどすれば、それこそすべてが終わってしまう。試合を先へ進めるためには打者へ向かって投げるしかないのに。
……だからか。僕はすっと、思考が形を成して胸に落ちてきたのを感じた。
どういう形であれ、打者へ投げれば、この試合は先へと進む。アウトを取り、勝利でこの試合を終えるも、ヒットや暴投でランナーを還してしまい、負けてこの場所を去るも。すべては、中嶋柊の右腕から放たれるボールの機嫌次第。そしてどういう形であれ、それが、彼にとって最後の投球になる。
決められないのか、どの球で、終わるのか。だけど、これじゃ駄目だ。そんな気がした。
作品名:108本の花のように 作家名:なつきすい