果てなき空
「えー。倭くんの言うことなんて聞く価値もないですねえ」
「おばかさんやからねえ」
「んだっと、この……!」
夜が更けていく中で賑やかな会話は続いていった。けれど相槌を打つことは少しあっても、椿が笑って会話に参加することはあれ以降一度もなかった。
+ + + + +
その翌日の午前のことだ。昨日に比べれば少しだけ気温が低く、空にはいくつかの雲が漂っている。青と白のコントラストの中に、街や緑の風景が重なる。
椿はひとり荷物守として、テントの近くにあった樹を背もたれに空を眺めていた。樹の高さは手の届くところに枝があるくらいでそれほどでもなかったが、茂った葉は木陰に最適だった。
「あれ? 今日の買い物当番は椿じゃないんだね」
「梨佐」
そこへ、梨佐が声をかけた。濡れた髪を肩に流す様は涼しげで、笑みもさわやか。寝汗を流したいからと、早くから河へ行っていたのだ。
「昼ご飯は緋桜が当番だからな。緋桜と倭が買出しに行った」
野宿をしていた場所から立ち去る前に、街での買い物を済ませる予定なのだ。暑さのせいで昼間の旅を断念したのである。活動時間は減ってしまうが、多少なり太陽の熱が落ち着きを見せてきた頃に出発しようということになった。発案者は倭だ。確かに椿も梨佐に無理をさせるわけにはいかないと考えていたところだった。決まったのは寝起きてすぐのことだったが。
「姫咲さんは?」
「散歩」
「そっかそっか」
椿の答えに納得して、梨佐が寝巻きに使っていたシャツを枝に引っ掛けていく。数時間放っておけばすぐに乾くだろう。
この団体行動にストレスが溜まるらしい姫咲は、空いている時間を気分転換に使うことが多い。それは大抵が散歩なのだ。
イライラするだのストレスだのとは言っているが、実際には結構楽しんでいるようにも見える。自分の領域に他人が踏み込むのが嫌いだとは言っていたけれど、天邪鬼らしいことは今までの付き合いでわかっている。それを言えばはぐらかされるが。
「空のこと……ごめんね、なんか。変な気分にさせちゃって」
朝から妙にそわそわとしているかと思えば、昨晩椿が黙りこくってしまったことを気にしていたようだ。梨佐は気遣い屋なのだ。悪いことをしたなと、思わずにはいれない。勝手に落ちていたのは椿の方で梨佐には責任がない。
「少し考えてただけだから、気にしなくていい」
「でも、気を悪くさせちゃったなら……」
「大丈夫、そんなことはないから。俺のほうこそ謝るよ」
特に、何か落ち込む理由があったわけではない。感覚の違いに驚いたのと、自分の小ささに呆れたようなものだった。話題提供者であろうと、梨佐に責任がないのは事実だ。
「梨佐は、何で昨日あんな話をしたんだ?」
「え、っと」
言葉に詰まる梨佐に、本当に些細な思いつきだったのだろうとわかる。椿はそんなことを言及しようとした自分が恥ずかしいように思えて、少し笑った。
「なんで空が青いんだろうなんて、俺は思ったことないから……本当にそれだけだ。気にしなくていい」
「うん……」
「不思議だな、同じものを見てるのに」
椿が笑えば、梨佐も笑った。洗濯物を干し終えた梨佐が椿のもたれかかっている幹の横に腰を下ろす。また少しだけ流れてくる沈黙が心地よかった。梨佐の持つ不思議な空気なのだろうか。椿はそれが好きだった。
「味覚とかと、同じだと思うよ」
「味覚?」
「あたしは何でも食べられるけど、姫咲さんはピーマンを人間が食べるものじゃない、ってくらいに毛嫌いしてるし」
梨佐の声はいつもより歯切れがよく、焦っている風な口調だ。
「緋桜はお肉が好きで、ナスとかにんじんとかが嫌いで、倭もそういう感じだし。人それぞれだよ、たぶん」
「人それぞれ……」
感覚が違う、ということ。
「別にピーマンが嫌いだからって死ぬわけじゃないし、……あたしはピーマンもおいしく食べられるほうが人生得してると思うけど、……あ、そうじゃなくて」
「いいよ、梨佐。わかる」
梨佐は一生懸命に、言葉を探して話そうとしていたが、次第に自分の言葉に混乱している。
空が、きれいだと思っても汚いと思っても、世界は変わらない。どうにもならない。けれど、どんなところでだって生きていけても、きれいなものが多いほうが。世界は変わらないけれど、自分の心がけや発想次第で、違う世界を見ることはできるのだ。
それは味覚とは違う。もっと簡単なことなのかもしれない。梨佐が空をきれいだと言った――ただそれだけのことでも、椿には価値のあるものに変えられる気がした。
「ハハ、――梨佐はすごいな」
「え?」
「そんな風に考えたこともなかったよ。うん、おもしろい」
声を出して笑うのは久しぶりな気がした。最近切羽詰った話題もなく平和なはずだったのに、それを楽しもうとしていなかったかもしれない。あんな緋桜と姫咲の口論だって、痴話喧嘩のようなかわいらしいものじゃないか。思い直せばあんなもの、怒るようなものではない。
「……そーだね」
「?」
「すごいなんて、言われるほどのことじゃないよ、……うん」
梨佐がそれだけぼそぼそと呟いて立ち上がる。チェック柄のショートパンツについた土や草を払ってから、街を遠くに見た。
「みんな、まだかな。……見に行こう、かな」
そわそわと、落ち着かないらしい梨佐が椿を振り返る。返事の変わりに少しだけ笑って、腰を上げた。
+ + + + +
夏らしい生地ではあるが華やかな衣装に身を包んだ緋桜は、どこにいても異空間を作り出してしまう。同年代の男女、それも美人と名のつく者をまとめて足して割ったような、中性的な顔立ちがそれを引き立てていた。ピンク色の髪は異国の踊り子をイメージした色だなどと初対面では言われた気がする。
「なあ、やまさん。ピーマン買うてったら姫さん怒るかなぁ」
街の八百屋の前で立ち止まった緋桜の手には、緑と赤のピーマンが持たれていた。倭はまたか、といった調子で斜め後ろから覗き込むと、彼が案外まじめそうな表情で悩んでいるのに気づく。
「怒るどころじゃねえ。やめとけって。次は毒盛られるって」
「なんぼなんでもそこまではやらへんやろ。あーどないしよ」
うんうんと唸りながら考える緋桜は、極々真剣にそのことについて悩んでいるらしい。倭が覚えている限りで嫌がらせに対する嫌がらせはこれでたぶん、五回目くらいだっただろうか。最初は緋桜も単なる嫌がらせのつもりだったけれど、だんだん楽しくなってきていることを倭は知っていた。今やある種のコミュニケーション方法の一環だとも思っていそうだ。ただの嫌がらせでしかないのに。
「椿に怒られるぞ」
「だって、ばっきんヘコんでたやん。怒ってくれるくらいがちょうどええなあと思うねんけど……あかんかな」
「姫咲もまた怒ると思うけど?」
旅を始める前から知り合いだった椿と倭だが、緋桜はもっと前に一度椿と出会って旅をしていたらしい。そのせいか緋桜が人一倍椿のことを心配していることは倭も知っていた。