果てなき空
「そうです。椿くんの言う通りですよ? こういうことには科学的根拠というものが必要です」
「意味わかんね。太陽光線ってなんだよ」
ふふん、と偉そうに腕を組んでみせる姫咲に、緋桜が不機嫌そうに頬を膨らませる。そういうことに疎い倭はつまらなさそうに言って、ごろんと寝転がった。その様子を見てふきだした笑みを抑える梨佐と目が合った椿は、そのブラウンの瞳に引き込まれるみたいに、つられて笑った。
「椿はどう思う?」
聞く限りで姫咲のような学問的見解を期待しているわけではないのだろう。とはいえ、そういったことはそれぞれの感性によって決められ、漫然と存在するものだ。言葉にするのは難しいし、考えたこともない場合だってある。
「……俺は、」
まさに椿はそれだった。
空は青い。そんなものは物心がつくころから、最初から知っているようなことのように思える。椿は空がどうしてそんな色をしているのかなんて考えたこともなかった。
「空って色んな色するのに、なんで青いイメージなんだろうね? 変だと思わない?」
確かに、それは多彩な表情を持っていると思う。青に染まる夏空、橙が滲む夕暮れ時。きらめく月、星の輝く夜の深い深い青色。雪空に見せる灰色もそうだ。一日に何度も、色を変える。流れる雲に同じ模様は存在しない。――考えれば、ある種で神秘的な存在だ。一概に空が青いという認識すらも間違っているのかもしれない。
「おれは、夕焼けが好きやなぁ。水色が橙に染まって、だんだん深い青がにじんでくん、めっちゃようない?」
足を伸ばし後ろにやった腕で体を支えながら、緋桜が夕焼けと同じ橙の瞳を輝かせる。梨佐以外――つまりは男四人一緒に買ったタンクトップが最近の寝巻きだった。緋桜は髪色に合わせたきついピンクで、その下にはダークブラウンのショートパンツだ。誰よりも身軽な格好をしている。
「僕は夜が好きですね。丸くなったり欠けたりする月を見るのが好きです」
「やだー、姫咲ったら意外とロマンチスト」
「……あなたはどうなんです?」
言われた倭が足を振り上げて起き上がり、胡坐の上に頬杖をついて、うーん、と唸る。
「オレ? んーと、そうだな……。空か。あんまり意識したことねーなぁ」
「ふーん?」
倭の正面から、どこか楽しそうなのは梨佐だ。こんなふうに全員で他愛のない話をすることはよくあったが、大抵は喧嘩からか梨佐の疑問から発展することが多い。前者はあまりいいきっかけとはとは言えない。今日のようなケースが一番気を使わずにいられて助かるのが椿としてはありがたかった。
「でもあったかい気はするかな。いつもそこにある、ってな!」
「あっはは、やまさん今日は別人みたいやなぁ」
「……はぁ?」
いいことを言った、とでもいうように腕を組んで偉そうな態度に出た倭が、緋桜に一発で崩される。それを見て間に座っている姫咲が笑うと、少し顔を赤らめていた。
椿は、そんな様子をぼんやりと眺めながら、考えていた。
(……俺はあんまり好きじゃない)
空とか。夜とか、夕暮れだとか。月がきれいなんて、そう思ったことがない。夕暮れは次に来る夜を思って、やることがたくさんあった。ゆるりと眺めることもなかった――そんな気がする。生活をする中で、天気という形ではそれなりの影響をもたらしているものではあったが、空単体での価値などは見出していなかった。だからこそ、椿の中でその存在が大きく主張することなどなかったのかもしれない。
「椿?」
「……え? ああ」
梨佐の声だ。椿ははっとして、沈んでいた意識を浮上させる。倭がぽかんとした表情でこちらを窺ってくるのを視線で返しながら、小さく息をついた。
「なんだよ。聞いてたか?」
「聞いてたよ」
「それで、椿は?」
梨佐が先を促す。単なる好奇心なのだろうが、こちらとしてはあまり答えたくはない内容だった。
「空か……」
正直な話――見ていると、広すぎて不安になる。ちっぽけな自分が恐ろしく思えてくる。それほど、特別な感情を持ったこともない。
「別に、なにも思わない、けど」
「なんにもォ?」
「……悪いか?」
いかにも癇に障ってくださいとでも言いたげな倭の口調に睨んで返すと、その雰囲気に気づいたらしい梨佐が、笑いながら倭と椿の前に手をばたばたと振って気を逸らした。明らかに気遣ってくれたようだ。
「人それぞれなんだねえ。見てるのは同じ空なのに」
「青く見えるのはただの可視光線ですけどね」
ずいぶんと前に読書を再開していた姫咲も、話は聞いていたらしい。淡々とした口調に、緋桜のまゆがピクリと動く。
「そんなんゆうてるから姫さんは夢がないて言われんねん」
「事実ですから」
「たまには夢見がちなことでもゆうてみ?」
隣同士が指定席となっているこのふたりは、放っておくとすぐに口論を始める。気が合わないからなのか、合うのが気に入らないかのどちらかなのだとは思うが、一言では表せない微妙な険悪さを常に秘めていた。
「意味がわかりません。事実をそうだと言っているだけなんですから、咎められる必要なんてないですよ」
姫咲が鼻で笑うのを聞いて、緋桜が笑顔になる。あっははは、なんて声をたてて笑い始めたかと思えば、体を支えるための腕を前にやって姫咲に近づくと、読書中のその顔を覗き込んだ。
「じゃあなんでピーマンが緑色なんやろなー」
「は? 知りませんよ。なんですか、喧嘩売ってるんですか」
笑顔の緋桜に、姫咲は完全に冷え切った視線で応対する。数秒流れた沈黙が心臓に悪い。たちの悪い暴力じみた喧嘩を始めるわけではないのだが、口達者なふたりが繰り広げる口論というのもあまり良いものではない。人生平和に生きるべきだ。
「ちょ、緋桜、姫咲さん……」
「梨佐さんは黙っててください。関係ないでしょう」
「……ご、ごめんなさい」
いつもはすぐに止めに入る椿の思考が停止しているのを、なんとなく全員が感づいていた。だからこそ喧嘩を始めようとしたことは、緋桜と姫咲しかわかっていない。梨佐はすぐに怖気づいて、そのまま自然と口論がおわることを祈って黙り込んだ。
「椿じゃねえと止めらんねーよ、梨佐」
「……あたし、なんか悪いこと言ったかな」
「いーや? 全然だろ」
倭が胡坐をかいた上に両手を組んで、顎を乗せる。椿との付き合いが少しだけ長い彼にはわかる、椿の「間」というのがあるのだろう。少しだけ椿にはふさぎ込む、考え込む癖のようなものがあるのだった。
「それよりこのへんさ、海あるらしいぜ。行きてえなぁ」
「海とかすきなの?」
倭が梨佐の気を逸らせようと笑う。ふたりの間に椿がいることもあって会話をしなくとも、完全に存在を断ち切るようなことにはならない。
「空でも海でも、向こうに何があるのかわかんねーやつは、結構好きかな。オレって冒険家気質だからさ」
「へえ、倭らしいね」
「出ました冒険バカ」
つい先程まで緋桜と口論していたはずの姫咲の声が聞こえた。読んでいた本は横にやり、白いタンクトップの上にいつものフード付ポンチョを軽く羽織りながら膝を抱えている。立てた膝の上に顎を乗せている様は、いつも以上に小柄に見えていた。
「うっせーんだよ、姫咲は! ちょっとは黙ってろ!」