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エリュシオン~紅玉の狂想曲

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 柊はそう心配するような年でもないが、自分が見捨ててきたような気分にもなってくる。椿が来た道を戻ろうと身を翻して、一歩進もうとした、時だった。

「!?」

 稲光のようにひらめいた閃光は、その一瞬で、視界の色を変えた。
 周りを囲むひとたちを、守る暇さえなく。

 炎の、あかが。

「なにこれ、火!?」
「町中が……!!」
 ほんの一瞬で、炎に包まれた。その、風景が。
「…………っ、あ」
 記憶に重なる。
 ゆらめくあか。だいだいいろ。焦げる、匂い。
「………………っ」
 膝から、力が抜ける。
「椿!?」
「おい、どうしたっ」
「……ぁ…………ッ」
 息が止まる。

 重なる。ひとつの街が消えたあの夜。
 耳鳴りのように助けを求める声が聞こえるようだ。
 見える。炎の向こうに、ひとがいる。
 泣き叫ぶ、人が。そこに――
(―――……っ)

 ――ぽん。ぽんぽん。

 背中に触れた、
 手。
「つーばーき。大丈夫や」
「…………っ……」
「ゆーっくり吸って、吐いてー」
 緋桜の声が、聞こえる。その手が、椿の存在を、証明していた。
 今は、ひとりではないんだ。


 梨佐は、駈け寄ったものの、見ていることしか出来なかった。
 ただ、見ていることしか。
 椿が膝をついて、苦しそうに胸を抑えている。すぐに緋桜がしゃがみこんで、赤ん坊を寝かせるように、ゆっくり背中を叩いた。
 そうして、「大丈夫」を言い聞かせて。
「吸ってー、吐いてー。はーいはい」
「……っ、はぁ……」
 椿の呼吸は、すぐには正常にならなかった。
 火が、熱い。
 チリチリ、する。
 椿に、何があったの?
 姫咲が、周囲に気を配っているのがわかる。倭が、困惑しているのがわかる。
 でも椿が、苦しそうに、息をしていて。
 緋桜が背中を撫でていて。
 突っ立っているあたしは、役立たず以外の何ものでもない。
「……、……ひお、悪い……」
 ようやく戻ってきた呼吸のリズムに、椿が苦く笑った。まだ、痛いんだ。
「椿、椿……だいじょうぶなの」
「ああ。……たぶん」
「たぶんって、お前な……」
 顔が色を取り戻していない。
 たぶんと言うまでもなく、平気でないことは明らかだった。それでも、背筋をピンと立てて、もう一度、大きく深呼吸をする。
「大丈夫だ」
「……椿、火もだめなの?」
「……悪いな」
 椿には、苦手な物が多い。
 ひとりきりの空間。夢と、雨と、狭い場所。
 そして今、目の前に広がる、海のような炎。
 けれどこんな風に、くずおれるなんて、一度も見たことがなかったのに。
「本当に平気なの?」
「……ああ」
 上手く、笑えてない。それでも椿は、痛そうな目で、ぐるりと炎を見つめた。
 今にも全てを飲み込んで、消してしまいそうな。
「……いいか」
 いちばん大丈夫でないひとが、全員の顔を眺める。
 この火、自然に生まれたものではない。梨佐でもわかる。きっと、止めようとしているんだ。
 椿が、息を吸った。
「緋桜、怪我人を探してくれ。姫咲は治療を」
「ウィ」
「はい」
「梨佐は出来る限りの手伝いを。倭、ここは任せるぞ」
「ん」
「うん、……わかった」
 とは言え、できることなどあるだろうか?
 梨佐の中にはわだかまりが残る。でも、気にしてはいられない。今は、すべきことがあるのだ。
「俺は柊のところへ」
「柊?」
「さっきあいつ、魔力のバランスがおかしかった」
「じゃあ、これを柊くんがやったと?」
 燃えさかる炎は、留まることを知らない。家々が、――街全体が、包まれたまま。
 柊は、魔力が少なかったのではなかったか。
 こんなことが、できるはずが、
(ないと思うんだけど……)
「暴走してるってことか」
「わからない。そうかもしれないし、違うかもしれない。でも、心配だ」
「無理しやんでな?」
「わかってる」
 少し表情の曇った緋桜の頭に、椿が一瞬だけ、手のひらを乗せた。
「……気をつけてね」
「梨佐もな」
 首肯で答えれば、椿の笑みが返ってくる。でもそれが、ひどく心配だった。平気だというのを作っているように見えた――けれど、引き止められもしない。
 梨佐は走っていく椿の背中を、視線だけで追いかけた。
「向こうだ」
「!! 倭? どこに……」
 倭が突然、椿と逆方向に走り出す。それに合わせて緋桜と姫咲も歩みを速めた。ついていけない梨佐の背を、緋桜が押して進ませる。
「やまさんは、ホンマの火ぃを、確かめてたんや」
「本物?」
 この炎に本物も偽物も――ない、ように思うが。
「本当に燃えているのは、一部です。街を覆っているほとんどが、……たぶん、幻術、……ですね」
「偽物の、炎……?」
「そゆことっ」
 駆け足に、言葉が途切れる。倭の走力についていけないばかりか、ふたりが梨佐の速さに合わせているのがわかって心苦しい。
「そんなの、わかるの?」
「ちゃんと区別ができんのんは、ばっきんとやまさんだけや。おれと姫さんは、わかってもわからん」
 魔力が足りひんから。
 それでも、本物かどうかはわかるということ。
(あたしはなんにもわからない)
 重いものが、心に降る。
「ここだ」
「誰か、だれか!!」
 燃え上がる一軒の家屋。叫び声が聴こえるのと、倭が立ち止まるのは、同時。
 辿ると、気が動転して大呼する、中年女性が目に入った。彼女は倭に、中にまだひとがいるのだと、早口に伝えた。
 彼女の家。熱い、炎に包まれている。発火してからはさほど時間が経っていないように見えた。ただそれは、幻術のように家が全て炎に包まれていないという点だけだった。
「おれ、中行ってくる」
「ひ、緋桜!?」
「だぁいじょぶ。心配しやんで!」
 でも。
 そう言う間もなく、緋桜は本物の、燃え盛る炎の中に飛びこんだ。
 カーキ色の先が、なびいて消えていく。
(あたしに)
 椿は、できることをと言った。
(――何ができるの)
 怪我人を癒せなければ、炎の中にも飛び込めない。魔術も使えない。
 この場所に、立つ価値なんて。
「梨佐!!」
「!! はいっ」
「これをそこ畑へ!」
 倭が示すのは、足元に転がる寝袋だった。梨佐が呆けている間に、召喚したのだろう。怪我人を休ませるためのものだ。
 梨佐はそれを受け取り、広げて、燃え盛る家の隣にある畑に広げた。好都合に、ただ空いているだけの部分がある。
「倭、できた!!」
「姫咲、そっちにいてくれ!」
「わかりました」
 焼け付くようなような熱さに、姫咲が薄手の外套を女性に着せる。彼女と共に、応答をしながら梨佐のいる畑へ歩みを進めた。
 未だ取り乱すひとを、姫咲が優しく宥めている。
 そのとき、炎の中から、唸るような声がした。
「や、やまさん…………ッ」
 緋桜が、その顔が見えないくらいに前かがみになって、炎の中から現われた。
 背に、女性の夫らしき男性を背負っている。細い腕には小さな子どもひとりを抱えて。そのまま炎が追ってこない場所まで、ゆらゆらと進んだ。
「緋桜!」
 梨佐もすぐにその場へ走る。緋桜は俯いたまま、小さな声を絞り出した。
「……子どもと、親父さんや。……お、おもい」
「梨佐、この子を」
「わかった」
「お父さんはオレが」