奪われた過去
背負っていた重いザックを土の上に置き、緒方はその女性に断ってから、二メートル程離れた同じ一本の倒木の端に、腰をおろした。彼は紅いザイルを荷物から取り出して倒木の上に置いた。眼鏡を外し、彼は拭き始めた。極度の近視の彼は、眼鏡なしでは殆ど何も見えない。深い谷底から微かに、渓流の音が時折聞こえて来た。そこから彼のところまでの距離がどのくらいかは判らないのだが、それは幻聴かも知れなかった。
彼は若い女性に地図を見せて貰いたいと、云い掛けてはことばをのみ込んだ。なぜ躊躇うのか。それは、山に入れば命の次に大事な、地図を失くしたことが恥ずかしいからだった。相手の性別とは関係ない筈だった。
考えてみるまでもなく、見知らぬ女性に声を掛けたことなど、二十六歳にもなりながら、一度も彼には経験がなかった。或る友人から、街中でいわゆる「ナンパ」をしたという話を聞かされたことがある。そういうことができるのは、自分とは人種が違うからなのだと、緒方は思っている。
彼の勤める写真植字の会社には、何人か若い女子社員も居た。たまには声をかけたこともある。だが、それは仕事上どうしても伝えなければならない、あるいはどうしても確認しておかなければならない、というような事情が発生した場合に限られていた。