奪われた過去
倒木に、若い女性が座っている。きれいな長い髪を後方で束ねていた。昨夜山小屋で見かけた女性だと、緒方はすぐに気付いた。上下共黒い登山服の彼女は地図を見ていた。
「こんにちは」
「こんにちは。この砂の滝、どうしましょう」
すがりつくような眼で、緒方を見ている。
「樹の幹にザイルを縛りつければ良いと思います。それを頼りに斜面を横断すれば良いでしょう」
会ったことはないが、少しだけ性格が解っている。物腰が柔らかくて、出しゃばらない。いつも相手の気持ちを考えている。そんな或る一人の女性と、この山のどこかで会えるかも知れない。はっきりと約束をしてはいなかった。 希薄だが、どこかで会えそうな、予感だけはあった。その女性の声は、中年女の落ち着きがあった。目の前の女性の声は、少し似ているような気もする。しかし、見たところ余りにも若かった。
「ザイルを持っているんですか?」