奪われた過去
あとはひたすら下山するだけである。陽射しの中で一枚物の地図を広げて見ていると、瞬く間に暗くなった。風が再び咆哮を始めた。待ったなしで濃いガスに包囲された。そのとき、彼は猛烈な突風に罵倒された。両手で持っていた地図が、強奪された。悪夢のような一瞬だった。
下山のルートを頭に入れる暇もなかった。注意深く樹の幹などにある印を追って行けば、温泉のある集落に辿り着けそうにも思う。しかし、不安だった。人跡未踏と云っても良いような渓谷は、この辺りには幾らでもありそうだった。緒方は追い詰められている、と感じていた。
*
森の奥に明るさがあった。それ程暗くもない、アカマツの森の中の路。その奥の、意表を突く明るさが、緒方邦彦を興奮させた。皮肉なことに、明らかに天候が回復を始めていた。
森が切れるとその先は、砂の急斜面だった。その手前に僅かながら平坦な場所があり、そこに倒木が一本置かれている。左上には眩しい岩の高い峰が僅かに覗いている。彼の目の前には、右下の眼の眩むような深い谷に向かい、細かい砂の白い急斜面が傾れ落ちていた。その地点の標高は、恐らく二千五百メートルくらいではないかと思われた。