奪われた過去
悪夢
緒方邦彦が三日前に入山して以来、ずっと悪天候が続いていた。逸れて行ったことはありがたいことだが、日本海に抜けた台風に向かって太平洋上から、次々と湿った気団が押し寄せて来ていたらしい。三千メートルを超えるピークを幾つも踏破したものの、緒方は感動する機会を与えられなかった。常に冷たい雨とガスに包まれたまま、寒さに震えながらの孤独な山行だった。稜線の上の最低気温が一桁だったことは間違いない。最高気温も殆ど変わらなかっただろう。
だが、最後の山の頂きでささやかな報酬が与えられた。ほんの数分間だけ、厚い雲が一掃され、俄かに眺望がひろがったのである。それが午後四時頃だった。懐かしい太陽の光が、眩く眼下の緑を輝かせた。それだけで満足するべきだと、緒方は思った。
この数年間、どこの山でもガスと雨に見舞われた。雨が降らない場合もあったが、濃いガスは必ず山を覆っていた。宿命という概念が、払拭できなかった。
今回は数分間だけでも視覚的に満足することができた。写真を撮らなかったことだけが、悔恨を強要するだろうと思った。