奪われた過去
「ゆかりさんも美人ですよ。凄く好きなタイプのひとです。ご両親はいい感じの人達でした。愉しい夕食になりそうな気がします」
「話がまとまっても、寝るところは別ですよ。わたしは自分の部屋です」
「それは百も承知です。でも、あとでその部屋に、ちょっとだけお邪魔してもいいですか?」
「……考えておきます」
「……そうですよね。確かに、考えるべきです」
「緒方さん。美緒との過去は、完全に忘れてくださいね。わたしとの未来の中だけで、生きて行ってくれると、約束してくださいね。どうですか?約束してくれますか?」
「わかりました。約束しますよ」
緒方のまぶたから、驚く程の涙が溢れ出た。緒方は湯を両手ですくって顔にかけた。蝉の声が急にうるさくなったような気がした。
その直後、あのトラックに乗せて貰っていたなら、まだ暫くは独身のままだったかも知れないと、彼は思った。更に彼は、この先どのようなことになるのかは、まだ判らないのだと思い直した。
だが、急に肩の荷が下りたような気がした。ややぬるめの湯に浸かっていると、緒方は強烈な睡魔に襲われた。
目覚めたときには夕暮れが迫っている気配だった。露天風呂からは広葉樹の森が見え、その奥に美しい山脈が望まれた。そこを雨に打たれながら、ガスに囲まれながら歩いて来たのだと思うと、やや複雑な心境だった。