奪われた過去
「いらっしゃい。これから入山ではなさそうですね」
「いま下りて来たところです。バスはもうありませんね。一泊させて頂けますか」
「夕食と朝食付きですね。何とかしましょう」
「天然温泉、なんですよね」
五十過ぎらしい男は笑った。緒方の杖変わりの樹の枝を見て云った。
「打ち身捻挫にも効くと、大変好評を頂いております。露天もありますよ。お大事に」
「今日の宿泊客は、何人ですか?」
「お客様だけです」
旅館の主人は、電力会社の人と会ったと云った。そして、緒方の仕事や家族に就いて尋きながら、二階へ案内した。夫婦だけでやっている旅館らしいこともわかった。
案内された部屋で、緒方は今日の行動記録をノートに書いた。そのあと、浴衣で風呂へ向かう途中、緒方は五十歳前らしい、にこやかな女性とすれ違った。
「いらっしゃいませ。お山の上のお天気は、生憎だったみたいですね。疲れを流してくださいね。今夜のお料理は、きっとご満足して頂けると思いますよ」
「ありがとうございます。そうですか。期待します」
実に印象の良い夫婦だと、緒方は思った。
内湯のガラス張りの向こうに、露天風呂が見える。緒方は急いで汗を洗い落して外へ出た。露天風呂は眼を疑う程広かった。竹の仕切りの向こうに、日帰り入浴の客がいるらしいのが、音で判った。竹の仕切りは外にも繋がって、露天風呂を取り巻いていた。