奪われた過去
対岸までの距離は二十メートル。あの、砂の急斜面の幅と同じくらいである。消防署などのレスキュー隊員なら、そんな所も難なく通過してしまうのだろうけれど、緒方は極端な臆病者である。
それを克服するためにも山を歩いたりしているのだが、臆病なところは一向に解消できないどころか、山へ来るたびに症状は悪化しつつある。やたらと転がっている倒木の一本に、彼は腰を下ろした。足の痛みが増して来ているような気がする。腫れているのだろうと思うが、見るのはやめた。
「こんにちは!サーカスみたいなことをしてここを渡ろう、なんて思ってませんよね!」
若い女の声に驚いて見上げると、初めて見る顔が笑っていた。快活そうな雰囲気なのは、髪が短いせいかも知れない。やや小柄で、しかも細身なので、身軽に動き回ることが得意そうだ。グレーのニッカーと真紅の登山シャツの娘。
「……」
「凄くいいお天気になっちゃいましたね。今日からずっとこんな天気が続くんですって。
猛暑で倒れる人が出るかも知れないって、テレビで……」
それを聞いて頭上を見上げてみると、林道から見たよりもきれいな青空がひろがり、眩い雲が呑気そうに風に吹かれている。