奪われた過去
「すみません。沢に沿って下って行くと、温泉とバスの発着所があるそうですね」
意外にあっさりとそう云えたことが、緒方は不思議だった。男たちは全員で聞き取りにくい地元のことばながら、快く説明してくれた。何度も聞きなおした末に判ったことは、三時間歩いたところに温泉宿が一軒だけあり、その近くからバスに乗れるということだった。
だが、徒歩で今からでは、最終バスに間に合わないかも知れないという。
トラックの運転手らしい人物が、バスの時刻表付きの、新聞紙大の観光案内兼防災地図を持って来てくれた。駆け降りて行けば、余裕で間に合うタイミングだが、足を傷めている緒方には、到底無理な相談だった。緒方がカラフルな印刷物を見ているうちに、トラックは行ってしまった。
その直後、緒方は気付いた。目の前の林道をあのトラックが下って行くと、バスの発着所を通過する。つまり、乗せて貰えばよかったということである。迂闊だった。その迂闊さが、自分らしいと思った。
炎天下の林道を、暑さを嘆きながら暫く下って行くと、沢に沿って温泉に続く路への入り口を示す標識があった。緒方は汗を吸って重い登山服を脱ぎ、Tシャツに着替えた。
何もかも後手後手だが、いつものことだと、彼は諦める外はなかった。
それから一時間程歩いたとき、緒方は極度の恐怖に苦しめられることになった。路は急流の対岸にしか続いていない。そこに架けられた吊り橋が崩壊し、一本のワイヤーだけが対岸に渡る手だてとなっていた。