奪われた過去
平地の真夏の暑さに近くなって来た。タオルを首に掛けて汗を拭う。蝉がうるさくなって来た。急に熊に襲われるのではないかと、彼は怯えていた。
路は急な登りになった。かなりの時間、焦りを覚えながら、急な登りをゆっくりと登り続けた。前方がかなり明るくなって林道に出た。送電線と鉄塔がある。林道には車のタイヤの跡。
路の脇に山苺があったので、緒方は口に入れた。懐かしい味だ。
低い唸り声が聞こえる。熊が近くに居ると気付いた。後頭部を思い切り殴られたような衝撃だった。その嫌な声は背後から来ている。恐る恐る振り返ると、トラックだった。その車は、太陽の強烈な光をまともに反射しながら走って来る。
緒方はトラックを熊だと、思いこんだ自らの軽率さに呆れた。電力会社のものらしいオレンジ色のディーゼルトラックは、黒煙を噴き上げながらやってきた。ゆかりを乗せていないかと、荷台の数人を観察したが、どれも日焼けした中年男ばかりだった。熊ではなかったことを喜んでいたせいか、砂利を踏みながら通過するトラックの騒音は、下界で感じる程不快ではなかった。トラックは緒方と、送電線の鉄塔との間の、林道に停止した。
鉄塔の根元に、車から離れた男たちが集まって談笑が始まっている。男たちが円を描くように集まった平らな地面の中央には、灰皿として紅く塗られた石油缶があった。こんな山奥にも喫煙所を設けているのを見て、緒方は滑稽に思った。その集団に向かって歩きながら、緒方は声をかけられたくないと思っている。未知の人間が怖いのだ。どんな立場で、どんなことを考えている人たちなのか、それを想像できないときは怖い。