奪われた過去
再び歩き出すと、ゆかりも同じように倒木を通過したのだろうかと考えた。それがどのくらい前のことなのか気になった。
気温が急に上がり始めた。汗が顎の下や眼鏡のレンズの下側に、大きな滴になって揺れた。
次は野生の熊だ!
視線を上げたときだった。百メートル程離れた前方だった。黒い後ろ姿が歩いて行くのが見えた。完全に黒いのではなく、幾らか褐色を感じさせる色合いだったようだ。
緒方は灌木の茂みに隠れた。彼は恐怖のせいで、貧血状態に陥った。間もなく調度良い太さの倒木に腰を下ろした。熊が方向転換して来たら、渓流に飛び込むしかないだろうと思う。ゆかりは無事だっただろうかと、心配になった。そう思うとじっとしていられなくなり、下流に向かっての前進を再開した。
彼女は結婚のために、退職しようとしているらしい。それについて考え始めた。話がおかしい。彼女は、緒方に惹かれているようなことも云っていたような気がする。
彼女が結婚のために退職するのだとすれば、その相手とはいつ頃から交際していたのだろうか。そういうことも、何もわからないまま、二度と会えなくなりそうな気がする。何もかも判らないまま、それっきりになってしまえば、精神的に辛い期間は短くて済むのだから、このまま忘れられれば良いようにも思った。
緒方は暫く休憩してから温泉を目指して腰を上げた。