奪われた過去
眼鏡のことも併せて思ったとき、緒方のまぶたから、涙が溢れ出した。仕方なく、彼はもう一度顔を洗った。
薄陽の射す無風の朝の空気の感触は、意外に高い気温と湿度を感じさせた。夥しい野鳥たちの姿は余りにも無警戒で、あの、花の群生地のように、返って不自然に思える。すぐ目の前を野鳥が飛び交っているので、衝突を避けながら、という気持ちで、緒方は歩きだした。平坦な道を、流れを左手に見ながら左足の痛みとともにゆっくりと歩いて行く。
暫く歩くうちに、杖には恰好の枝を入手したので、それ以来ぐんとスピードアップした。
明日の朝には出社したいので、景色を眺める余裕もない。全身汗に包まれながら、急ぐ。
それでも、やはり佐井ゆかりを想いながら歩いていたことに気付く。追いつくことができるのか、できないのか。案外どこかで追い越してしまうこともあり得ないことではない。
何年も前のことだが、デートの約束をして、待ち合わせの喫茶店で相手に逢えなかったことを、思い出した。一時間近くも早めにその店に入った彼は、下の商店街の雑踏を見下ろせる席を選んだ。自らが、人が通り過ぎるのを眺めるのを好むということを知ったのは、そのときが初めてだったのかも知れなかった。デートの相手は、約束の時刻を一時間過ぎても現れなかった。更に数十分経ってから、相手の家に電話すると、その妹だという娘は、何時間も前に姉は出かけ、緒方からの連絡の有無を確認するために、一度ならず自宅に電話してきたことを訴えた。