奪われた過去
再びの孤独
昨夜の湿布が効いたらしい。シュラフの中で左足を動かしてみると、不思議なことに少しも痛みがない。思わず笑顔になって上半身を起してみると、まさかと思う程きらびやかに、少し離れた岩の上に、昨夕紛失した緒方のメタルフレームの眼鏡が置かれていた。
手帖の一ページを切り離したものと思われるメモの上で、それは清潔に磨かれて、朝の太陽光の中で輝いていた。眼鏡は暖かくなっていた。それは陽射のせいなのだが、佐井ゆかりの体温のような気がして、胸がときめいた。如何にも生真面目な性格を思わせる、丸くない彼女の文字を読んだ。
「メガネ、すぐに見つかりました。わたしは、実を言うと正論出版を辞めようとしています。だから、昨日が独身のわたしの顔を見る最後のチャンスだったかも知れません。結婚の相手は決めてありますが、相手のひとは内緒です。あのお酒、汗をかきながら探し回って、やっと見つけたものでした。おいしいって、ひとこと、言って欲しかったです」
胸の奥に熱いものを感じながら、緒方は慌ててシュラフから抜け出し、ザックの中からきれいな靴下を探し出した。やはり無痛という訳ではなかったが、靴も履いて立ち上がることができ、ゆっくりと、歩くこともできた。
杖に調度良い樹の枝を探してみたが、これがなかなか見当たらない。諦めて冷たい流れで顔を洗ったとき、昨夜の酒は、彼女がこの流れで冷やしてくれていたことが、漸く解った。